世界に誇るブラジリアン柔術家・中井祐樹

(『週刊宝石』2000年掲載)

 '95年4月20日、日本武道館。1万人の観衆が見守るなか、ポルトガル語で、「なんでもあり」を意味する「バーリ・トゥード」が冠せられたトーナメント戦が開催された。

 初代タイガーマスクにして天才格闘家と称される佐山聡が創立した総合格闘技・シューティング(現・修斗)が主催する無差別級による『バーリ・トゥード'95ジャパンオープン』である。

 この大会のリングに、身長170cm、体重71kg(試合当日は69kgだった)という軽中量級選手である中井祐樹の姿があった。

 当時交際中だった英子婦人(30歳)は、この大会で初めて中井の戦う姿を目の当たりにすることとなった。

「格闘技をやっていることは知っていたんですけど、どういう競技か詳しくは知らなかったんですね。ところが、『これが最後の試合になるかもしれない。生きて帰って来れないかもしれないから最後まで見ていてほしい』と会場に招待 されたのが、この大会だったんです」

 最愛の人にだけ告げられた壮絶なまでの覚悟。自分の技術と勝利を信じ、マスコミには強気な態度を見せていた中井だが、その一方では死をも辞さない思いを抱いてリングへと歩みを進めていたのだ。

      ※

 中井は北海道の石狩管内にある浜益郡で、男ばかり3人兄弟の次男として誕生。格闘技との出会いは、幼稚園の頃から祖父の影響で観始めたプロレスだった。

 小・中学校時代にはプロレスラーになることを真剣に夢見ていたという。

 成績は抜群だった。

 中学で生徒会長を努めるほどの秀才は、北海道で屈指の進学校である札幌北高校に入学。

 レスリング部の存在が選んだ理由だった。

 しかし、いつしか大学進学という現実の前に格闘技への夢も忘れかけていく。

 高校卒業後、ストレートで北海道大学に入学。

 普通に考えれば将来が約束されたようなものであるが、この大学で再び彼の格闘技熱に火をつける武道との出会いがあった。

 寝技を主体とした高専柔道である。

 その日を境に大学生活は、高専柔道一色に染まることとなる。

 忘れかけていたはずの格闘技への思いは、中井の心にしっかり残っていた。

 彼は職人と呼ば れるようなプロの格闘家になることを決意する。

 そして、シューティングこそが自分が進むべき道であることを確信したのだ。

 4年生の夏に大学を退学。

 上京の準備も整った。

 ただひとつ、公務員の父親を説得することを除いては。

「考え方が違うんですよね。母親は『男の子は自分の好きなことをやれ』と応援してくれたんですが、オヤジとは最後まで平行線。説得できないまま北海道を離れました」

 '92年8月に上京し『シューティング横浜ジム』に入門。

 高専柔道で身につけた寝技に秀でた中井は、8ヶ月後の'93年4月に念願のプロデビューを果たし、 '94年11月にウェルター級王者をも手中にする。

 そして翌年にはシューティングの命運を背負い、『バーリ・トゥード'95ジャパンオープン』のリングに立つことになるのだった。

 中井の寝技のテクニックは確かに高い評価を受けるに値するものであった。

 しかし、他の出場選手との圧倒的な体格差を考えると、彼の参戦は無謀とも思える行為だった。

「絶対勝てると思っていました。僕が勝てばシューティングの実力を認めさせることができるという意識もありましたし、重量級と比べて価値が低く見られている軽量級や中量級に対する意識も一気に吹き飛ばしてやる、という思いもあったんです」

 自分の技術をもってすればヘビー級相手でも勝つことができる。それは決して根拠のない自信からくる発言ではなく、バーリ・トゥード戦における寝技の有効性を誰よりも強く感じていたからだ。

 しかし、リングの上では何が起こるかわからない。

 いままで戦ったことのないヘビー級選手相手のバーリ・トゥード戦ともなれば、予想もつかない事態が待ち受けていることも十分考えられる。

 そして、中井はこの日天国と地獄を味わうこととなる。


■一夜で味わった天国と地獄

 トーナメント1回戦の相手となったのは、ケンカ家の異名を取るオランダの空手家ジェラルド・ゴルドーだ。

 1ラウンド開始早々、タックルを受けてロープ際まで下がったゴルドーは、ロープに腕を絡ませて体を支えた状態から中井の頭を抱え、親指を目に突き立てたのである。

「グリッ、グリグリッという感じで何回か指を回してからググッと強く押されたんですよ。反則されても別にかまわないぐらいの心構えで試合に挑んではいたんですが、さすがに『コイツ、何てことするんだ』と思いましたね。でも、そこでカーっとなってしまったら負けですから」

 マットに背をつけながらゴルドーの膝関節を狙う中井の顔面を、容赦ないパンチと蹴りが襲う。

 右目が腫れあがりほとんど塞がったような状態に陥りながらも、一瞬のチャンスを見逃さなかった中井は、ヒール・ホールドによって約27分もの長い戦いに終止符を打ったのである。

 続く、プロレスラー、クレイグ“ピットブル”ピットマンとの戦いでは、身長で15cm、体重で44kgもの対格差をはねのけ、自分が下になった状態からの腕ひしぎ十字固めでTKO勝利を奪う。

 誰もが予想しなかった中井の決勝進出。

 その相手となったのは前大会の覇者であり、バーリ・トゥードの世界で最強の称号を持つ、あのヒクソン・グレイシー。

 すでに満身創痍の状態だった彼の前にヒクソンは高い壁として立ちはだかった。
 結果は1ラウンド6分22秒、ヒクソンのチョーク・スリーパーによって中井は敗北を喫した。

 ヒクソン相手に真っ向から寝技勝負を挑み、高い技術の攻防の果てに負けたのである。決して恥じるような敗北ではなかった。

 格闘技界の新しいスターの誕生の瞬間だった。

 しかし人生とは非常に皮肉なものである。

 一夜にしてシューティングのみならず日本格闘技界の救世主となった男は、その翌日にはどん底の地獄を味わうことになる。

 ゴルドーから受けた目潰し攻撃が、中井の右目から完全に視力を奪ってしまったのだ。

「試合後に医務室で診てもらったときに『眼球に傷がついている』とは言われたんですが、見えていると思われたみたいで……。僕も興奮状態にあったためか、見えてないとは思わなかった。次の日ですね、見えてないことに気がついたのは。鏡を見たら右目も開いている。それなのに見えなかったんです」

 すぐに自宅近くの眼科へと向ったが『入院治療の必要がある』と言われ、紹介先の埼玉県大宮市にある日赤病院を訪れた。

 そこで中井を待っていたのは、明日入院の宣告。

 診断は“動脈閉塞”。眼球の奥にある動脈が潰れて閉じた状態になっていたのだ。
 現在の医療では眼球の奥にある動脈を外科手術で治療することは不可能。いわば、失明宣告だったのである。

 だが血が凝固して動脈を塞いでいる可能性もあり、点滴で目に薬を流し続ける治療が施され、入院は2週間にも及んだ。

「退院後、名医だといわれる病院にはずいぶん足を運びましたね。15〜16カ所は行ったと思います。こういう状態は6時間以内に処置しなきゃいけないと言う医者もいれば、2〜3分のうちに処置しなきゃとか、医者によってさまざまなこと言われましたね」

 今でこそほとんど問題ないと言うが、右目の失明は遠近感を狂わせ、日常生活にも支障をきたした。

 ペンをキャップに刺すことができなかったり、お碗に味噌汁をよそおうとして手にかけてしまうなどの失敗は数知れず。

 テレビを観るにも頭痛がおきてしまうため短時間しか楽しむことができなかった。
「3カ月くらい、いろんな治療を試みたんですが効果はあらわれない。なんとなく覚悟はできていたことではあったんですが、御茶ノ水にある名医として有名な眼科で『これは不可能だ』とハッキリ言われたときには、『あぁ、やっぱりな』って気持ちでした」

 覚悟していたといってもショックだった。

 しかしそれでも治療をあきらめることはなかった。

 視力の回復を断念することは、プロのシューティング選手としての道を断たれることにつながるからだ。


■道衣の試合で現役引退を決意

 24歳という若さ。夢を追い、過酷なトレーニングを続けてきて、やっと陽のあたる場 所までたどり着いた矢先のことでもある。西洋医学に限界を感じた中井は、東洋医学に望みを託した。

「鍼の治療には栃木県の佐野市まで通ってました。まだ結婚前でしたけど、目のために運転ができない僕の代わりに妻が車で連れていってくれたり、ジムのスポンサーさんのご厚意で中国へ行かせてもらって、ホテルで有名な気功の先生の治療を受けたりもしました」

 普通、視力を完全に失った眼球は萎縮して取れてしまうため、医者は義眼を勧めるという。もちろん、中井も義眼を勧められた。

 ところが奇跡的なことに、彼の右目は今も弾力と瑞々しさを保ち、義眼にする必要がなかった。
 向かい合って話をしていても、とても視 力がないようには感じられないほどだ。
「これって考えられないことらしいんですよ。以前、ハワイの病院で診てもらったときに、そこの医者は、『今は治す手立てがない』って言い方をするんです。だから、いつか治るんじゃないかって思ってます(笑)」

 「バーリ・トゥード‘95ジャパンオープン」での大活躍で一躍、格闘技界の寵児となった中井であったが、ファンが彼の雄姿を再びリングで見るまでには約半年間のブランクがあった。

 先に述べたように右目の失明がその理由である。

 だが、中井が失明した事実はひた隠しにされた。あの当時はバーリ・トゥードを「野蛮・危険」とする反対論が存在していたため、事実が公表されたならば反対論はさらに高まると考えられたからだ。

「僕としては事実を発表してそれでも頑張りますと言いたかったんですが、佐山先生に『イメージダウンにつながるからもう少し待ってくれ』と言われて‥‥」

 失明の事実を隠したまま、その年の9月、駒沢体育館で行われた大会で中井は復帰した。

 ただし、シューティング・ルールではなく柔術ジャケット・マッチ。

 対戦相手はブラジルの強豪ジアン・マチャドだ。

 規約上、右目の視力を失った中井がシューティングの試合を行うことは不可能。

 しかし、彼の出場は集客効果を高める。

 あの時点でマッチメーク上の切り札でもあったわけだが、中井自身はこの試合に乗り気ではなかった。

「総合格闘技をやりたくて北海道から出てきたのに、道衣に戻るのは昔に戻ってしまうような気がしたんです」

 結局、彼はこの試合を最後に当時のプロモート会社であるワールド修斗に社員として入社し、イベントのプランニングやプロモートを手懸けていくようになる。

「背広組になったんだから気持ちを切り替えて、とにかく優秀なビジネスマンになろうと(笑)。将来、道場を開くにしても、この仕事が自分の勉強になると考えたんです」

 だが、肉体的には何の問題もない彼が現役復帰に未練がなかったと言えば、それは嘘になるだろう。

 英子夫人は当時を振り返って、こう語る。

「失明直後は、あまり落ち込んでいるようには見えなかったんですね。そんな素振りを見せないようにしていたのかもしれませんけど。むしろ興行の仕事をするようになって、一歩引いたかたちで現役選手を見る姿に寂しそうだなと感じたことがありました」


■世界に誇れる日本人の一人だ!

 ‘96年1月から中井のプロモーターとしての新たな仕事がスタートした。しかし、この年の7月に開催された『バーリ・トゥードジャパン’96』が、プロモーターとして最後の仕事となったのである。

 この大会中、もっとも注目を集めていたのが「寝技の鬼」の異名をとる、修斗ライト級王者・朝日昇とヒクソンの実弟であるホイラー・グレイシーの試合だった。

 マスコミもファンも、朝日に打倒グレイシーの夢を抱いた。だが結果は朝日の惨敗。これが中井の現役復帰への思いを決定的なものとした。

「朝日さんとホイラーの試合を観て、柔術とは圧倒的な技術差があると痛感しました。日本人選手は、もっと寝技のレベルを上げなくてはいけないし、自分が柔術に勝ちたいという欲望も湧いたんです」

 過去に戻るのではなく、寝技を極めるために再度、道衣をまとった。

 ここに柔術家・中井祐樹が誕生する。

 そして9月にシューティングのリングで行った柔術のエキシビジョン・マッチを皮切りに彼は海外の柔術大会に打って出ることになったのだ。

 ブラジリアン柔術の帯は、下から青・紫・茶・黒と4つに分かれており、試合は帯別に加えて、10階級の体重別で行われる。

 修斗ではチャンピオンだった中井だが、スタートは青帯の大会からだった。

 とはいえ、高専柔道とシューティングの技術を持つ彼は海外でその実力を見せつけ、実績を残していく。

 97年12月にはワールド修斗から独立し、自らの理想を実現するための柔術と修斗の道場「PARAESTRA(パレストラ)TOKYO」を開設した。

 スポンサーも付けず、全て自己資金での旅立ちだ。

 中井が自分の夢を追究したい気持ちは分かるが、結婚からわずか1年後の独立に英子夫人は不安と感じることはなかったのだろうか。

「借金をしてスタートするわけじゃありませんし、もし潰れてしまったとしても2人で働いていけば何とかなると思ってました。てっぺんからどん底に落ちる経験をしたというのに、彼は『目が見えなくなったのは神様からのプレゼントだ』って言うんですよ。選手と裏方の両方を経験できたから今の自分があると言うんです。私はそんな彼を信じて、自分のやりたいことを追いかけてほしいと思っています」

 理解ある妻に支えられ、中井の理想郷「パレストラ」は順調にそのコンセプトを全国に広げつつある。

 一方で柔術家・中井祐樹もまた約3年の短期間で、世界の頂点に手が届くところまできている。

 昨年9月、純粋な日本人として初めてブラジリアン柔術の黒帯を取得。

 翌月にブラジルで開催された世界選手権以上にレベルが高いといわれる大会『ブラジレイロ』黒帯の部(ペナ級・66・9・まで)で3位に入賞。

 たとえるならば、日本人のキックボクサーがタイの国技であるムエタイのチャンピオンになるのと同等の偉業といえるだろう。

 日本では格闘技ファンでもない限り、中井のことを知る人は少ないだろうが、アメリカやブラジルへ行くと街を歩いていて「ナカイ」と声がかかるほどの知名度がある。

 しかし、これが到達地点ではない。目標はまだ上にある。

「今年7月にブラジルで開催される世界選手権での優勝が最大のテーマ。それを達成したら、また違った欲が出てくるかもしれませんね。もし、目が治ったら困りますね。絶対にまたシューティングをやりたくなるから。そうなると柔術がハンパになってしまいますしね(笑)。でもいつかは治るような気がしています」

 どん底と感じた右目の失明だったが、これが彼と柔術を結びつけることになった。

 柔術家、中井祐樹は間違いなく、日本が世界に誇れる日本人の1人だ。

(『週刊宝石』2000年掲載)