中井祐樹・魂の記録

 もし、あの夜、中井がゴルドーに屈していたら、今日の修斗は存在したのだろうか?

 日本に「総合格闘技」というムーブメントは起こったのだろうか?

 「目の前の敵は誰であろうと倒す」

 その一念だけで無差別級トーナメントのリングに上がった1人のシューターが放った鮮烈な光がなかったら…。

 熱砂の国・UAEの首都、アブダビ。サブミッションレスリングのトーナメント、アブダビコンバット・無差別級、準決勝の舞台に桜井速人が立った。対戦相手のリコ・ロドリゲスは体重130kgの巨漢。それでも桜井は圧力をしのぎながら互角に戦った。両者に決定的なポイントがないまま、時間が過ぎていく。

 だが、劇的なフィニッシュが残り10秒で訪れた。一瞬の隙を突いて、桜井が下から足を絡ませ、ヒールホールドでねじり上げたのだ。体重差は実に60 kg。場内は一瞬にして「ハヤトコール」に包まれた。

 しかし、当の桜井は事もなげにこう言った。

 「中井さんも無差別で戦ったでしょ」

 130 kgの敵を前にした時、桜井の頭によぎったのは「中井祐樹」の姿だった。

 「中井さんもこんなデカいヤツとやったんだ、っていう気持ちがあったから、相手がどんなにデカくても負けたくなかったし、追い込まれても絶対にあきらめないと思ってた。だから、いたよ、中井さん。いつも気持ちの中にいた」

 そう言って、桜井は自分の胸を叩いて見せた。

 それは今から4年前の95年4月20日、日本武道館で行なわれた「バーリ・トゥード・ジャパンオープン95」(以下、VTJ95)でのことだ。修斗の命運を背負い、身長171cm、体重71 kgと出場選手中、最も小さい当時のウェルター級チャンピオン中井祐樹が、無差別級トーナメントのリングに上がったのだ。そこで、中井はヘビー級選手を相手に計49分間戦い抜き、修斗の強さを身を以て示した。すべてのシューターの胸に今も宿る、中井祐樹、魂の戦い。

 それは、文字通りの「死闘」だった。

■勝利の確信と誤算

 試合前、レフェリーの小方康至は出場選手の一人一人に大会ルールを印刷した紙を配って回った。前日のルールミーティングで、ある団体からの「決定事項を書類にしてくれ」との申し入れを受けてのことだった。

 ジェラルド・ゴルドーの控え室に入った小方は、それまでと同じように書類を渡し、説明を加えようとした。だがゴルドーはそれを制し、こう告げた。

 「私はお前を信じている」

 前日のルールミーティングでは選手同士が激しく牽制し合った。ヒジ打ちを認めろと要求するゴルドーに、それならグラウンドでのヒジ打ちも認めるのか、とヒクソンがやり返す場面もあった。

 だが、試合当日のゴルドーは穏やかで、紳士的な態度だった。

 「だけど、僕が甘かった」

 後に、小方はそう振り返ることになる。ゴングと同時に、ゴルドーは豹変した。「喧嘩屋」の本性をムキ出しにしたのだ。

 トーナメント1回戦、中井vsゴルドーが発表されると、関係者は一様にその危険性を指摘した。ゴルドーはアルティメット大会準優勝の実績がある上に、中井との体格差は身長で27cm、体重で29kg。中井の寝技を評価する者もこの「体格差」の前には沈黙せざるを得なかった。

 中井は70年8月18日、北海道で生まれた。北大で引き込みありの七帝柔道に出会い、寝技にのめり込んだ。大学を3年で中退すると92年8月にスーパータイガージム横浜(現・シューティングジム横浜)に入門。94年9月にVTJルールで柔術黒帯のアートゥー・カチャーと対戦し、引き分けには終わったが、カチャーにヒザ十字を極める快挙を演じた。その年の11月には草柳和宏を下しウエルター級王座を獲得した。

 しかし、グラウンドに持ち込めば、休むな、と野次が飛ぶ時代だった。中井の技術は理解されず、自分の技術、寝技の重要性を示すには自分がメジャーになるしかなかった。プロレスラーを倒すか、アルティメットを制覇する。95年初頭に、中井は自身の「メジャー化計画」を立てた。

 94年の夏からは、スーパータイガーセンタージム(現・PUREBRED大宮ジム)でエンセンから柔術の技術を学んでいた。準備は整っていた。

 「疾走、疾走だった」

 中井は当時をそう振り返る。

 当時、修斗は危機を迎えていた。唯一のプロモーションであった日本プロシユーティング株式会社の経営的な危機こそ、94年始めのスポンサーの獲得で乗り切ったものの、今度は修斗の本質にかかわる危機に見舞われていたのだ。

 アルティメット大会が起こした「何でもあり、グレイシー」ブームに乗る形で、日本プロシューティング株式会社が母体となったVTJ実行委員会は94年7月にVTJ94を開催した。

 日本初の何でもあり大会ということで東京ベイNKホールはほぼ満員になった。だが、そのリングで当時ライト・ヘビー級チャンピオンであった修斗代表の川口健次と草柳和宏が惨敗。まだ「何でもあり」の技術を修斗自身が掴んでいなかったのだ。大会はヒクソン・グレイシーというヒーローを生み出したが、修斗内部には激しい動揺が走った。自分たちのやってきたことは何だったのか‥‥。

 だからこそ、修斗はVTJ95で結果を出さなくてはならなかった。佐山聡は、その期待を中井に託した。

 「中井の精神的な強さは言わば藤原敏男(元ムエタイ王者)です。ゴルドーには絶対に勝てると信じていました。ただ、ゴルドーの反則があそこまで厳しいとは‥‥。それだけが誤算でした」

 開始のゴング。中井がゴルドーに胴タックルすると、ゴルドーは中井の頭を抱き抱えるようにしてロープ際まで後退し、引き倒そうとする中井の動きを左脇にロープをはさんでこらえた。そして、中井の右目へサミング(目潰し)を始めた。

 観客からは容赦ない野次が浴びせられた。

 「殺せ!」

 「ゴルドー、何やってもいいんだぞ!」

 ゴルドーが中井の顔面を殴り出すと、客席がドッと沸いた。

 観客は、目の前で展開するムキ出しの暴力に「劣情」を催していた。当時は、人間を金網の中に入れ、馬乗りになっても殴り続けるアルティメット大会の衝撃映像が強く影響している時代だったのだ。VTJが「修斗vs世界」というテーマを打ちだし、その性格を変えたのは翌年以降のことになる。

 最初に、ゴルドーの妙な手つきに気がついたのはリング下のサブレフェリー・石川義将(第2代ミドル級チャンピオン)だった。石川は2人が組み合うそばに駆け寄り、ゴルドーの指が動くのを見た。

 「サミングだ!」

 石川が叫び、小方がゴルドーに「注意1」を与えた。だが、ゴルドーはそれでも表情一つ変えず、また胸と両手で中井の頭を抱え込む。何かをしているのは分かっても、小方にもセコンドの朝日昇にもゴルドーが中井に何をしているのかは見えなかった。

 石川がリング下から叫んだ。

 「ゴルドー、サミング取るぞ!」

 しかし、客席からは膠着状態にしか見えない。リング上の緊張をよそに、観客の野次と怒号はますます激しく、汚くなっていった。

 開始30秒で中井は右目の視界を失っていた。目の中を爪でえぐるようなサミングに、激しい痛みを感じてうめいたが、それでもゴルドーの体は離さなかった。

 サミングの注意後も、ゴルドーは反則を止めない。すでに右目は腫れ上がっていたが、中井はゴルドーの焦りを感じ取っていた。あと1回の注意で反則負けだ。

 コイツは反則で自滅するな、と確信した。

■ゴルドーを制す

 中井にとってこの大会で最大の危機が第2ラウンドに訪れた。右足へのヒールホールドが失敗して下になった中井へ、ゴルドーが上からパンチを打ち付けたのだ。

 「ズドン、ズドン!」

 空手家・ゴルドーの正拳が中井の顔面に打ち下ろされる音が会場に反響した。

 たちまち中井の右目から鮮血が飛び散った。

 小方は中井の目を見ていた。ストップのタイミングを計っていたのだ。

 石川は、ゴルドーのパンチを受けて中井の頭がバウンドするのを見て、もう少し殴られたら止めよう、と思っていた。

 サブレフェリーだから中立なんですけど、殴られるのを見ているのは辛かった」

 横浜ジムで中井に修斗の手ほどきをしたのが石川だった。バーリ・トゥードならば修斗のエースは中井だと考え、VTJ94の際には佐山に中井の出場を進言したほど、石川は中井の精神的な強さを買っていた。それでも、中井の打たれ方は酷すぎた。

 中井が両足でゴルドーの体を抑えようとしても、リーチの長いゴルドー相手では防御意味を持たなかった。逃げ場のない、絶望的な状況。

 その時、セコンドの朝日が叫んだ。

「中井、こっちに来い!」

 ロープの外ならパンチも打ちにくくなる、と朝日は考えたのだ。同時に、タオルの投入も頭にあった。試合前、中井からどんなことがあってもタオルは投げないでほしい、と言われていたが、本当に駄目だと思ったら投げる、と朝日は答えていた。

 朝日の叫び声に導かれるように、中井はリングの外に上半身を出した。ドントムーブ。なおも身を乗りだし殴り続けるゴルドーを小方と石川、もう一人のサブレフェリー・渡部優一(初代ウエルター級チャンピオン)が抑え、3人がかりでリング中央に移動させた。だが、ゴルドーは組み合うことを嫌がり、猪木−アリになったままラウンドは終了した。

 紙一重で、中井は危機を脱した。

 第3ラウンドは第1ラウンドと同じ体勢になったが、中井が頭の位置を動かし続けてゴルドーのパンチとサミングを避けた。中井がバックを取る場面もあったが、ゴルドーがロープとコーナーを巧みに使ってテイクダウンを避けた。だが、膠着の多さに客席には白けたムードすら漂っていた。

 ロープを掴むことを許したことが、この大会の大きな失敗だった。ロープを掴んでの打撃を想定したヒクソンのアイデアだったが、ゴルドーとリングスの山本宜久がこのルールを利用し、ロープをテイクダウンを逃れる手段にした。8分1ラウンド、インターバル2分で、決着がつくまでラウンドを繰り返す「時間無制限試合」だったため、観客はいつ終わるともしれない試合に苛立ちを募らせ、野次を浴びせた。この大会の荒れたムードは進行の手際の悪さとともに、ルールも一因になっていた。

 第4ラウンド開始直前、小方はゴルドーのグローブの右手・親指部分をテーピングで固定した。親指とグロープを固定しているヒモが切れていたためだった。このヒモを指を動かすために故意に切ったのか、自然に切れたのかは小方にも分からなかった。

 第4ラウンド、中井は意を決して両足タックルを仕掛けた。当時、修斗の主流は胴タックルだった。VTJ94で川口と草柳が足へタックルを仕掛け、上からパンチで殴り倒された反動だった。だが、中井は局面を打開するため、あえて両足タックルを選択した。中井のタックルを受けてゴルドーはコーナーに詰まるが、またしてもロープを掴んでこらえると、そのままフロント・スリーパーを仕掛けた。

 だが、中井は腰を落とし、少しずつ足元へ体をズラすとゴルドーの左足を脇にはさみ込み、素早くヒール・ホールドへ移行した。

 ゴルドーはロープを掴んで抵抗したが、中井がねじり上げると、ゆっくりとその巨体がマットに倒れた。と、すぐさまゴルドーが左手でマットを叩く。ついに、中井が技と粘りでゴルドーを制したのだ。

 中井は、ヒール・ホールドが右足よりも左足の方が得意だった。第2ラウンドの失敗は右足。フィニッシュは左足だった。

 朝日と、「担架係」としてリング下にいた佐藤ルミナに支えられて中井はリングを降りた。バックステージで中井が叫ぶ。

 「やった、専門誌の予想を覆したぞ!」

 「当たリ前だろ。あいつら、シロウトなんだからよ」

 朝日の答えに中井が微笑んだ。

 「そんなこと言ってー。また嫌われますよ」

 2人は控え室には戻らず、武道館の裏手に横付けされた救急車に向かった。

 すでに中井は額全体を腫らし、特に右目は赤黒く腫れ上がっていた。だが、まだ1回戦を突破したにすぎないのだ。あと2つ‥‥。

 試合後、ゴルドーはサミングは故意ではないと主張し、こう言った。

 「ナカイはスタミナと強いハートを持ったいいファイター。ヒジ打ちが嫌だなんていうチキン(臆病者)のヒクソンより、ナカイやヤマモトの方がガッツがある」

 ゴルドーは注意1により罰金10万円をファイトマネーから差し引かれた。ヘイズの負傷棄権で巡ってきた敗者復活戦の権利は、左ヒザの負傷により放棄。それでもヒクソンvsゴルドーを期待し、騒ぎ出した観客の前に姿を現わして自身の欠場を詫びた後、

 「神戸の皆さん(大震災の被災者)にポケットマネーから500ドルを寄付する」

 そう表明し、観客の大きな拍手を浴びた。

■ヒクソンに辿り着く

 救急車の中で、中井は酸素吸入を受けながら医師の診断を受けた。

 「やれますか?」

 朝日の問いに、医師は答えた。

 「目にひどい衝撃を受けなければ大丈夫」

 後々、この言葉に従ったことを、朝日は悔やむことになる。だが、この時は「やれる」という診断を信じ、目の衝撃を正確に判断するためにタオルを打撃に長けた坂本一弘にゆだねた。

 場内からヒクソンvs山本戦の大歓声が聞こえてきたが、救急車の中では何が起こっているのか分からない。ビタミンCとブドウ糖を補給しながら、中井は次のピットマン戦を考えていた。115キロの巨漢でレスリング経験があるピットマンは、ゴルドーより厄介な相手だった。グラウンドに持ち込んで消耗させても2時間はかかるかもしれない。だが、中井が勝機を見出だせるのは長期戦しかなかった。

 野次や怒号は覚悟の上だった。

 「中井選手、右目の負傷手当てのために登場が遅れています」

 場内アナウンスが流されてまもなく、右目に白いガーゼを当てた中井が花道から出てきた。中井は、リング下でガーゼを取るとシコを踏み、準決勝のリングに上がった。

 予想通り、苦しい戦いになった。ガードポジション越しに放たれるピットマンのパンチはハードヒットこそしなかったが、腫れた目は触られただけで劇痛が走った。腕を取るも、持ち上げられてパワーボムでマットに叩き付けられた時には一瞬、呼吸困難になるような衝撃を味わった。この試合のリングは、クッションがほとんどない固いマットだったのだ。

 セコンドの坂本は、サブレフェリーの石川がしきりに自分を見ていることに気づいていた。だが、中井の意識がしっかりしている以上、タオルを投げるつもりはなかった。ヒクソンまで持っていってやりたい。

 坂本は祈るような気持ちで中井の腫れ上がった顔を見つめていた。

 第2ラウンド、中井がフェイントからの左ハイをヒット。ピットマンがニヤリと笑う。効くはずはないのだ。この後、グラウンドになるとピットマンは上からヒジで中井の首を圧迫した。

 ビットマンは中井の足関節を警戒し、1ラウンドのようにガードを越えて殴ろうとはしなかった。

 そこで、中井は腕に目標を絞った。

 「早くやれよ!」

 グラウンド戦に焦れた観客の野次に呼応するかのように、中井がピットマンの左腕を探り、十字に移行した。

 「アッ」

 中井を体ごと持ち上げながらも思わずピットマンが声を出した。次の瞬間、小方がストップ。

 『捨て十字のつもり』だった中井は拍子抜けした。ピットマンとセコンドが小方の裁定に不服を唱えると会場からは激しいブーイングが起こった。勝ち名乗りを受けながら、中井が呟いた。

 「レフェリーが止めたんだよ‥‥」

 ひとしきり、判定に抗議したピットマンだが、リングを降りる際に小方と目が合うと小さく会釈をした。その仕草で、小方はすべてを了解した。

 決勝のリングには大方の予想を覆した中井と、大本命のヒクソンが上がった。

 「マイナー時代、最後の勝負だあ!」

 中井はそう叫んで、決勝のリングに出ていった。すでに体はボロボロだったが、大きなことを成し遂げようとしている気持ちの高ぶりを中井は感じていた。「寝技の時代」の到来を告げるかのように、中井はこの試合でヒクソンに寝技勝負を仕掛け、ヒクソンのマウントやチョークを外してみせた。朝日はすごい、と呟きながら試合に見入った。その一方で、中井にはベストの状態でヒクソンとやらせたかったな、とも思った。

 フィニッシュは、ヒクソンの背後からのカカト蹴りが中井の金的近くに当たり、それを中井が右手で嫌った瞬間、ヒクソンの左腕が中井の首に滑り込んだ。中井はしばらく耐えたが、完全に極まっていることが分かると小さく右手でヒクソンの腕を叩いた。

 午後10時20分、すべての試合が終わった。表彰式の後、リングには坂本や九平、ルミナら修斗の選手や関係者の手で胴上げされる中井の姿があった。

 「これで変わる。これから何かが出来る」

 涙を流しながら、朝日はそう考えていた。VTJ94の惨敗で自信を失っていた修斗に、中井が一筋の希望の光をもたらしたのだ。

■光と傷跡、そして再生

 99年4月8日、後楽園ホールで開催された大道塾「WARS5」のリングに、中井が上がった。国内での試合は実に2年ぶり。パレストラ函館の藤本勤との柔術マッチだった。同門対決だったが、中井はきっぱりと言い切った。

 「同門だろうと何だろうと、僕は試合は試合として当然ガチンコ(真剣勝負)でやりますよ。ジムでもそう指導しているので」

 言葉通り、中井は容赦しなかった。リバーサル、マウントで次々とポイントを奪うと21−0で圧勝。それでも中井はこう言った。

 「皆さんに一本を見せたかったんですけど、取れなくてすいません」

 ゴルドーのサミングで失った中井の右目の視力が、元に戻ることはなかった。

無差別で勝って強さを証明し、本来のプロフェッショナル修斗のリングに戻るはずが、修斗で試合をする機会さえ奪われてしまったのだ。

 その上「バーリ・トゥード反対論」が巻き起こることを恐れ、真実を語ることは許されなかった。中井自身、完治する希望を捨てていなかったこともあるが、事実が公にされた96年11月まで、中井は自身の目については沈黙を守った。

 転機は、奇しくも翌96年7月のVTJ96で訪れた。メインで朝日を破ったホイラー・グレイシーを見て、ブラジリアン柔術の圧倒的な技術量を痛感したのだ。

 「いよいよ僕の出番だ、と思った」

 中井は「柔術に柔術で勝つ」というテーマを掲げ、柔術選手として新たなスタートを切った。97年12月には、自分の道場「パレストラ東京」を開設し、後進の指導にもあたっている。

 中井の怪我は、本人はもとより周囲にも衝撃を与えた。特にあの日、近くで中井を見ていた者には大きな傷となって、今も残っている。

 小方は「優秀なシューターを潰した」という思いを抱き続けている。今もレフェリーとしてリングに立っているが、

「レフェリーとして僕は95年で終わっているんです。後進が育ったら辞めます」

 現在、小方は96年に設立した修斗コミッションで活動している。「真剣勝負」の原則を貫くには試合の安全と選手の健康管理が必要になる。そのためには公正、中立なコミッションが不可欠だと考えたからだ。同じ信念を持つ現SC事務局長の鈴木利治とともに、今もルールやマッチメイクの検討、健康管理についての啓蒙を行なっている。

 修斗グローブにも様々な改良を加えた。VTJ95当時はサミングを防ぐため隠していた親指を、今はサミングが見えるようにと親指を出した。だが、今のグローブも完成品ではない、と小方は言う。安全性の追及に終わりはないと考えているからだ。

 観客の失笑を買った「ドントムーブ」はすっかり形を変えた。エンセンや中井の助言から鈴木が考案した「レフェリー1人で頭をリング中央へ向ける」形になった。

 VTJ95を始めとする様々な教訓を生かし、修斗は今も変わり続けている。

 坂本は現在、プロデューサーとして活動しながら、ふと「中井がいてくれたら」という考えがよぎることがある。

 「中井vsルミナ、中井vs宇野薫なんて考えただけでワクワクしませんか? 今、中井がいたらもっと修斗は魅力あるものになっていますよ」

 VTJ95の後、ウエルター級で頭角を現したのがルミナだった。ある時、中井がルミナとは一度やりたい、と言っていることを知った坂本はコミッションに中井の復帰を要請した。当然申し出は却下されたが、中井の思いをかなえたいという気持ちが坂本を無茶な行動に走らせた。

 「中井vsルミナなら、ルミナは絶対に苦戦する。中井が壁になってくれたら…」

 朝日は、今も薄暗い病院の廊下の光景をはっきりと覚えている。

 試合の翌日、センタージムに来た中井の「目が見えない」という言葉に驚いた朝日は、近所の眼科で「大きな病院での診断が必要」と言われ、大宮の日赤病院に中井を連れて行ったのだ。そこで中井が視力を失ったことを知り、慌てて関係者に連絡しながら「なぜ?」という思いが頭を駆け巡り、呆然と薄暗い廊下に立ちつくした。

 中井はそのまま2週間入院した。

 VTJ95を特集した25日のテレビ東京「バトルウィークリー」には外出許可を取ってスタジオに行った。ディレクターから、顔の腫れは格闘家の勲章だから、とサングラスを外すように勧められたが、中井はやんわりと断ってサングラス姿で出演した。当然、目については一言も口にしなかった。

 「強いですよ、中井は。弱音は一言も吐かなかった。僕はバーリ・トゥードでホイラーに勝つから、中井には柔術でホイラーに勝ってほしい」

 96年から本格的に柔術に取り組んだ中井は、現在、茶帯まで歩を進め、「柔術の黒帯」が手の届く位置にいる。

 「自称・黒帯じゃ駄目なんです(笑)。柔術も、ここの流派に属していないと黒帯が取れないとかあるらしいですけど、世界選手権かブラジレイロ(ブラジル国内選手権)を取れば文句はないでしょう。

 茶帯も、その前の年に紫帯で勝った大会に『今年は茶でいいか』と聞いてOKを取りました。向こうも茶帯で勝てば次は黒帯で出すしかないじゃないですか。

 僕は、目の前の敵を倒して、実力を認めさせてここまで来たから、柔術でもそうやって上がっていきますよ」

 VTJ95で修斗に光を与えた男は、今、日本柔術界のパイオニアとしてその扉を自らの力で開こうとしている。

 あの日、中井が目の前の大きな敵に怯むことなく立ち向かい、勝利する姿を見て、修斗を始めた選手たちが今、第一線で活躍している。中井の姿を修斗公式戦で見ることはできないが中井が見せた勇気は、今もシューターの胸に宿っているのだ。(「修斗読本」1999.6.16)(茂田浩司、日本スポーツ新聞社)

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