■第1回・奈良博■全道選手権者叩き付けた天才的立技の切れ味

 優勝という目的が達せられると、その優勝したという事実は、もちろん讃えられ語り継がれる。しかし、後々まで関係者の心を揺さぶり続けるのは、むしろ勝利を希求し続けてなお届かなかった凄絶な負け試合のほうだろう。

 前年、岩井主将が率いる北大は、九大との決勝戦で、代表決定戦の死闘のすえに平島の剛力の前に屈した。優勝の悲願は次の主将・奈良博に託されたが、またしても九大と平島がその前に立ちふさがる。

 奈良の1学年上の副主将・藤田寿は、今でも酒が入ると必ず奈良の話を後輩に聞かせる。

 「北大に過去に強いといわれた人間はたくさんいたが、立技の天才といえるのは奈良をおいて他にいないよ。70キロそこそこの体で東京や関西の有名選手とやっても絶対投げられないし、むしろ押していたんだから。もし、北大ではなく東京の私大に進学していたら、オリンピックに行っていたんじゃないかな。それくらい強かった」

 また、奈良の2学年下、後に選手監督を務める浦口宏二はこう言う。

 「奈良さんなら勝ってくれるという信頼感は絶大なものがあった。相手をカメにして、頭に回ってその上に座ると、もう自陣営から大拍手が起きた。その体勢になれば取ったも同然だったからね。そこから、額に落ちた長髪をさっと片手で掻き上げて、おもむろに横三角に入る。後輩はみんな、奈良さんのが自分たちの主将だということを誇りに思っていた」

 立っても寝ても抜群の強さ、時代を同じくした人間すべてが絶賛する奈良の伝説を決定付けたのが、あと数日で4年目になる3月26日に出場した全道選手権である。

 まず、1回戦で田村(王子製紙)に独特の回り込むような払い腰で一本勝ち。2回戦は斉藤3段(道警)に内股で技有り。3回戦では、オリンピック代表候補にもなった昭和47年度全道選手権者・佐藤誠6段(道警)に試合場のど真ん中で豪快に払い腰を決め、これも一本。4回戦は島野3段(道警)を手堅く上四方で抑える。結局ブロックの準決勝で王子製紙の畑山4段に返し技を食い優勢負け、あと一歩で全日本選手権出場は逃した(畑山は2位になり全日本に出場)。しかし、軽量の現役北大生のベスト16進出は満場の度肝を抜いた。この活躍により、東北北海道対抗戦に北大の学生としては浜田理以来20数年ぶりの大抜擢を受けることになる。

 むろん、道内の学生に敵はいなかった。学生体重別では3年目時代に軽中量級で優勝、4年目では階級区分が変更された78キロ級でやはり優勝した。

 団体戦である優勝大会では、全国舞台でも勝ち星を稼ぐ。2年目出場時こそ2戦1分け1敗だったが、3年目時には黄金時代の東洋大学(前年度準優勝)と当たり、先鋒に出て岡田を横四方に抑え一本勝ち、次の年も強豪・大東文化大の巨漢森永を得意のケンケン内股で投げて勝っている。かように、少なくとも彼自身は、藤田寿が言うように全日本レベルの選手と互角以上の試合をしてきた。

 では、その奈良でさえ勝てなかった、伝説の九大との七帝決勝戦とはいったいどんな試合だったのか。

 九大は北大で怖いのは奈良だけ、とその位置「中堅」を読み、自慢の超七帝級抜き役陣をずらりと並べてぶつけてきた。

 2人リードされている。

 1人目、髪を振り乱して顔面蒼白の奈良が攻め立てる。当時はまだ高橋広明らのちに抜き役になる2年目も育っておらず、北大の抜き役は、事実上、奈良と5年目の助っ人・鈴木康弘の2人だけだった。しかし、鈴木は既に引退した身、多くを期待するのは無理だ。酷暑九州。自ら「スタミナがあるほうではない」という奈良は、1人目の森田を抜いた時点で、疲労はピークに達し、すでに戦える状態ではなかった。だが、それでももう1人抜きに行く。抜いた。さらにもう1人??。

 その主将の精神力がその後の北大選手に伝播した。

 武田監督(当時)の横でセコンドとして学生に監督の指示を伝えていた佐々木洋一は振り返る。

 「奈良の試合まではむしろ北大はだらしない試合をしていた。それが奈良の2人抜きのあまりの凄惨な様子に他大学も含めて館内は水をうったように静かになって、それ以後、北大陣営には異常ともいえるムードが充満してきた」

 平島と当たった2年目の池田憲二は「死んでも分けます!」と叫びながら試合場に立ち、見事に大役を果たした。禅院4段と当たった小柄な次期主将の山内隆男は、鼻から、口から、耳から、目から、次々に出血しながらカメで守りきった。

 大久保薫は「北大柔道」にこう書いた。

 しばし休憩の後、九大との決勝戦となり、九大の波田江、山本の2選手の為にわが北大陣は予想外に2選手を失ったが、期待の奈良選手はさすがに忽ち九大2選手を屠ふり、伊藤選手と引き分けた。その2人目の山崎選手への極め技の「三角絞」は山崎選手に失神と共に肩の負傷を併発したが、誠に見事であり、終戦後数年にして、北大柔道に初めて開花した寝技の極まり技として心から賞賛に値するものと感じた。この上は崩れ上四方固、送り襟絞め、腕挫十字固と遠藤孝介氏発案の足抜きの四基礎を習熟すれば寝技北大の昔を復活する日も夢ではないと思い始めている。

 次の池田選手は九大の猛将平島選手と当たり、苦闘を繰り返し引き分けに持ち込んだことも特記すべき戦績である。また私は夏負けの為試合を完全に見ることが出来なかったが、全選手が能力を十二分に発揮して、頑張り、ついに大将決戦に持ち込み、審判員の見落としから代表戦に移行した事実は見ていなかった。代表戦は奮戦、疲労したわが方の奈良選手と8分間しか試合をしていない土着の巨漢平島選手とは戦前から勝敗はほぼ予想された、そして想像したような結果に終わった。

 ある後輩が「奈良さんが投げられたのは1回も見たことがない」と言うそのたった1回が、九大との代表決定戦で現出した。後輩たちの必死のマッサージを受けても腕に握力は戻っていなかった。まして、相手はスーパーヘビー級の平島である。疲弊しきった体から出された内股にいつもの切れ味はなく、平島が巨体を浴びせると奈良はそのまま畳の上に潰された。平島が必死の形相で抑え込む。

 佐々木洋一は、「万全なら奈良だった」と自信を持って言う。奈良自身も、「試合をしたという感覚はない」と、淡々と振り返る。奈良には「北大を優勝に導けなかった」という悔しさはあっても、「平島に負けた」という感覚はないようだ。奈良は、平島に負けたのではなく、それまでの北大の「超弩級に頼る」その体質に負けたのである。いくら奈良でも1人で戦った疲労は大きすぎた。大久保薫が書くように既に戦う前から結果は明らかだった。

 北大は、この翌年、「幹部全員が分け役」だった山内隆男主将の代が、ついに初の単独優勝を遂げることになる。「全員が主役になる」という岩井イズムは、2年連続の九大との死闘を経て、ようやく大きな流れとなって北大の新しい伝統となっていく。(敬称略)

【なら・ひろし】昭和50年、秋田高から北大入学。秋田高は当時から進学だけでなく柔道でも名門だった。昭和54年、法学部を卒業後、郷里に帰り、秋田県庁に就職。


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■第2回・渡辺康憲■浅野返しを復活させた戦後随一のテクニシャン

 北大予科のOBが、かつて嘆いた。「高専大会の寝技が七帝戦になって30年退化した」と。その新制北大の寝技レベルを一気に引き上げた男がいる。渡辺康憲(昭和47年入学)だ。わずか65キロの小柄な身体で、引き込んで下から華麗な攻めをみせた。大砲的な抜き役ではなかったが、同じ修猷館出身の内山洋・井尻潔とともに北大柔道部の歴史を語るときに外すことはできない存在だろう。

 佐々木洋一は言う。

 「戦後の北大柔道の寝技確立に功績ある3人衆として、竹内(光一)さん、渡辺、中井(祐樹)を挙げることができる。この中で誰が一番強かったかは諸説あるけれど、技術的には渡辺が一番上だろうな。竹内さんも以前同じようなことを言っていた。渡辺はオレの2年下だが、入ってきた時の寝技の完成度には心底驚かされたよ。新入生で立技の強いヤツはけっこういるし、驚くことではないんだけれど、寝技では初めての経験だったな。あいつなら九大の甲斐だって抑え込んだと思うよ。それくらい、上から突っ込んでくる相手には強かったな」

 渡辺の功績は、その戦績よりも、北大柔道の寝技に技術的新風を吹き込んだことである。それまでの戦後の北大の攻撃パターンは、立技で押して寝技に持ち込み上から攻めて取る、といった腕力にものをいわせた一直線なものであり、寝技においては予科時代の技術が姿を消し、ほぼ全員が「噛み付き」とよばれる上から相手の脚を殺す攻めを得意としていた。

 一方、渡辺の寝技はしなやかであり、理に適っていた。当時、北大にとっては幻の技であった浅野返しで、先輩たちを軒並みひっくり返した。突っ込んでくる相手の力を利用して、相手の引き手を帯の結び目の位置まで深く差し込み、そこを支点にして軽く持ち上げるように後ろに返す。その浅野返しは芸術的ですらあった。また、渡辺のもう一つの得意技に、相手の後ろにまわって両襟をとり、徐々に相手の力を殺しながら肩を極め、最終的には崩れ上四方で抑え込むというパターンもあった。渡辺は相手の力を利用するのと、相手の力を殺すことの両方に非凡な技術があった。そうでなければ60キロそこそこの小兵が、体力的に優位に立つ相手を片っ端から抑え込むことは不可能であったろう。

 修猷館トリオは共通して巴投げが得意だ。3人とも60キロ台で、体格的には恵まれておらず、立技の切れもいまひとつだったが、スピードのある巴投げから寝技への連繋技術は傑出していた。寝技を決め技にもってくるこの柔道スタイルは、修猷館高校の奥田義郎監督(当時、現九大師範)のものだ。

 奥田氏は天理大学の出身で、学生時代に高専柔道出身者に寝技を習った。元旧交会会長の武田泰明は、昭和39年の第19回国体で、北海道代表として奥田の属する九州代表と戦い、苦杯を舐めた。小さな体格の奥田が大柄な北海道代表選手を鮮やかに絞めて取ったのである。奥田の寝技は、高専柔道の高度な寝技の技術を小柄な自身の体型に合わせて独自に進化発展させたものだった。

 その修猷館時代の指導方法は実にユニークだ。新入生の体格が小さく立技にセンスが光る生徒がいないと、その代まるごと立技を教えず、寝技をみっちり仕込んだ。教える立技は、相手を後ろに放る真巴のみで、背負いその他は一切教えなかった。一見型破りな教え方のようだが、小柄な白帯選手が、わずか3年弱で、嘉穂高校など全国レベルの強豪高と九州の覇を争うくらいの力をつけることができたのだから、非常に効率的な選手育成法であったのは確かだ。修猷館は九州でも有数の進学校であり、この時代多くの猛者を七帝に送り込み、七帝戦はさながら修猷館の同窓会の観を呈していたという。

 理想的な渡辺の寝技にも欠点がある。一つは、カメのように徹底して守りに入る相手や、セオリーを無視しためちゃくちゃな動きをする相手を苦手としたことである。相手の力を利用する渡辺には、なにもしてこない相手や動きの読めない相手には、なかなか技が決まらなかった。もう一つは体格的な面だ。渡辺は小柄なこともあり、自分から引き込む展開になることが多かった。渡辺自身、当時を振り返って、180センチ、90キロ程度までの相手なら下になっても全く不安はなかった、と言う。しかし、下から相手を引き込むスタイルは、体格差がありすぎる相手には往々にしてリスクを伴う。リーチの長い相手は御すことが難しく、体重を乗せて脚を殺しにこられると捌きようがない。このあたりに渡辺の限界があったのかもしれない。

 渡辺の七帝戦における戦績は、11戦3勝1敗7引き分けであった。特筆すべきは、七帝戦での11戦のうち、先鋒をつとめたのが実に8回を数えたことである。

 渡辺と同期の一徳和彦は渡辺の思い出として次のように語る。

 「渡辺は先鋒で出ることが多かったな。なんといっても安心感があったよ。もちろん取ってくれるかなという期待も持てたけど、なによりも、こいつなら負けないだろうという安心感が大きかったな」

 渡辺は4年目の七帝戦で、東北大の抜き役である巨漢の小笠原に抑え込まれて、七帝戦唯一の黒星を喫している。渡辺にとっても、この敗戦は忘れられない。黒星の原因を振り返って、「練習不足」と「体格差」を挙げている。

 当時より水産学部柔道部では部員不足に悩んでおり、どうしても練習不足になってしまう環境にあった。寝技は練習の産物である。ましてや小兵の渡辺が充分な練習を積めなければ実力が低下してしまうのは致し方のないことであったろう。

 立技はセンスとバネを必要条件とする。一方、寝技は正確な理論と豊富な練習量を絶対条件とする。立技の習得には時間を必要とするが、寝技は正確な技術を教授できる環境が整っていれば、立技に比べて短期間で習得が可能である。このことは、前総監督の岩井眞や、ブラジリアン柔術家として活躍中の中井祐樹が大学入学後白帯から柔道を始め、上級生になる頃には周囲を唸らせる寝技を披露した例が如実に示している。確かに、巨体を利して立ってよし上から攻めてよしの抜き役は、七帝戦史に多くその名を残している。

 しかし、そのような選手は多分に天分に頼っていると言っても過言ではなく、また、七帝柔道を志した選手が全員そのようなスタイルの柔道をできるわけではない。渡辺スタイルの寝技は、体力とセンスで押して取る柔道の、まさに対極にあると言える。体力のない者が相手の力を利用して攻める。これこそ寝技の理想であり、また本人の意思と練習次第では誰もが収得可能なスタイルでもある。

 渡辺の偉業はこの寝技の理想的なスタイルを北大に持ち込んだことに集約される。もちろん渡辺のみではなく、他の修猷館トリオの、内山・井尻の存在も大きい。彼らの寝技はそれまで力に頼っていた北大の寝技を一新した。「引き込んで下から返し、攻める」という高専柔道のスタイルを北大に復活させた功績は高く評価されるべきである。そして、この渡辺スタイルの寝技は、元コーチの竹内、前コーチの佐々木、当時の監督の武田、前総監督の岩井らの胸に長く残ることとなる。当時の監督であった武田泰明は次のように渡辺を述懐する。

 「北大の寝技を変えたということでは、渡辺のみではなく修猷館3人衆全員に功績がある。3人とも個性的な寝技をしたが、立技と寝技の比率に違いがあった。内山が4対6、井尻が5対5だったのに対して、渡辺は1対9だった。だからだろうか、私のなかでは渡辺の寝技が一番印象に残っている。たとえば奈良は立技の天才であり、その切れは芸術的だった。だが、渡辺の寝技も奈良の立技に匹敵するくらいの芸術であったことは間違いない」

 幻の浅野返しに代表される高専柔道の本格的寝技を新制北海道大学柔道部に伝えたのは、実は、予科の大先輩でも他旧制高校のOBでもなく、戦後数十年経って突然現れた九州出身の小柄な一青年、渡辺康憲だった。 中央の強豪私立大学と比較して体格でも体力でも経験でも劣る七帝柔道は、この本格的な寝技を、いま、新たに見直す必要があるのではないだろうか。(敬称略)

【わたなべ・やすのり】昭和27年10月13日生まれ。福岡県立修猷館高校
から昭和47年北大水産類入学。昭和51年水産学部水産化学科卒。水産庁西海区水産研究所勤務。現在、研究室長として有明海で発生した赤潮の原因の究明にあたっている。家族は妻と一男二女。


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■第3回・菊地時洋■アクロバットな寝技で巨漢翻弄した北の小天狗

 50人近い新入部員の中に、よく動く小さな白帯の選手がいた。伝統の苛烈な練習で7人に減った中に彼は残った。だが、のちに彼が部史に残る名選手になると誰が予想しえたであろう。菊地時洋(昭和37年入学)の、柔道に対する思いの強さがなし得た結果だ。畳という青いキャンバスに芸術柔道を描いた現役時代の勇猛ぶりと、引退後の人生でも「柔らかな道」を歩き続ける男の、その記録をここに残す。

 小柄なだけに、菊地の強さは、道場での練習でも常にひとり目立っていた。「立技が強かった。大きい相手を手玉にとっていたよ」

 「彼はだんだん強くなっていったと思う。独特の動きをしたが、あれは持って生まれたセンスだったんじゃないかな。教えてできる動きじゃない。身体が小さいくせにダイナミックな動きで、一気にばーんといくんだ。寝技が強かったな。足がきいて、下からするっと上に返っていた。その返しは菊地返しと呼ばれていたよ」

 「自分流の柔道だね。とにかく人が予測しない動きをする。受けが強い印象がある。寝技も強かった。上からの攻めで、相手の下履きを握ってバック転するような感じで、パッと相手の上を固めるのが得意だった。あれは印象的だった。記憶に残る選手だね」

 菊地の強さを最も良く知っている、前北大師範の浜田理は次のように語る。

 「菊地さんは強かったよ。それは間違いない。あの人の強さは、強豪列伝には入れなくてはならないな。私自身、菊地さんには手痛い負けを喫しているからね。あれは、菊地さんが4年目の時の追いコン試合で私とやったときだ。私も3人抜いていてかなり疲れていたけど、組んだらいきなり飛びつき逆十字をやってきた。我慢したけどだめだった。そりゃあ強烈で、いまでも腕がまっすぐ伸ばせないんだ。菊地さんの柔道は、大学では白帯から始めたせいか技は未完成だが、スピードがあってバネが凄かった。腕力も強かった。失礼な言い方だが、まさにコマネズミのようだった。とくに絞めと逆がうまかった。異能、といえるかもしれない」

 しかし、ある人は、こんなふうに言う。

 「そんなに強いという印象はないなあ。試合で活躍した人は他にもいたけどなあ」

 菊地の強さを否定するこの言葉にも、実は真実がある。のちに北大のエースとなる菊地も、怪我のために4年目になるまで目立つ活躍ができなかったようなのだ。現役時代の菊地は、身長164センチ体重60キロの小兵だったが、その運動能力は群を抜いていた。柔道部一の俊足でありながら、スナッチでは90キロをするっと上げる怪力も併せ持っていた。その、体格以上の腕力と並はずれたスピードが菊地の身体に負担をかけ、普通の人では考えられないような怪我を繰り返していたという。

 たとえば3年時の七帝合宿では、小指の先が真っ二つに裂けて、その年の七帝戦を棒に振っている。 4年目。怪我なしでうまく調整をすすめた菊地は、それまでの3年間のうっぷんを晴らすような見事な活躍をみせた。春の全道優勝大会では、ただ一人全勝し、久しぶりの北大の全道制覇に貢献した。決勝の北海学園大学戦では、中量級の北海道高校チャンプだった相手エース葛西を、左の内股で崩して寝技に持ち込み菊地返しで返して縦四方に固め、みごとに周囲の期待に応えた。

 そして本番、大阪での七帝戦。前年初優勝の北大は連覇を狙える布陣で臨んだが、まさかの初戦敗退。敗者復活戦に回り、前年度深夜10時まで掛かって覇を分け合った九大と前年を再現するかのような代表戦にもつれこんだ。

 代表はだれか??、それぞれの思惑のなか、佐藤宣紘監督は菊地と浜田理を呼ぶ。1人目は菊地だ。当時の北大は、5年目に闘将山田邦彦と寝技師三宅肇を抱え、4年目には主将の鬼才奈良武征、さらに3年目には浜田理を擁す、いま考えればかなり贅沢な陣容を誇っていた。ここで、なぜあえて菊地なのか。この問いに対して佐藤監督は簡潔に答えた。

 「どうして小さな菊地を出したかって? 一番強かったからさ」。そして、なぜそんなことが分からないのかと、少し怒ったようにこう続ける。「代表戦だ、あたりまえだろう。彼ならぜったい取られないという確信があったし、事実その通りだったよ」。

 代表戦の1試合目で菊地と対戦したのは、九大のキャプテンである185センチの巨漢高木睦雄である。当時高木は九州中に名を轟かせた強豪であり、もちろん七帝屈指の実力者だった。その高木相手に、菊地は徹底して引き込んでいった。1試合目は、菊地が引き込んでは高木が持ち上げることを繰り返すうちに引き分けとなった。2試合目は浜田理が九大ナンバー2の田中征男と大外の掛け合いとなり、結局引き分けた。3試合目は再び菊地と高木の対戦だ。

 菊地曰く。

 「そりゃあ、立っていったら投げられるさ。でも、寝技なら負ける気はしなかったなあ。あとは相手の隙を狙ってね。体格差がありすぎる相手には寝技しかないからね」

 1試合目と同様に、菊地は執拗に引き込みを続け、チャンスを狙い続けた。何度目かの引き込みで、高木が菊地を持ち上げようとした瞬間、菊地は変則の絞めを仕掛け、それが見事に決まった。しかし??。

 一番近くで観ていた浜田は残念そうに言う。

 「あんな絞めは見たことがなかったよ。反対の手で相手の頭を上から押さえつけるようにして一瞬にして絞め落としたんだ。ただ、相手が菊地さんを持ち上げるのと同時だったから、落ちた瞬間に審判の待てがかかった。あれは明らかに一本だよ」

 結局その試合は引き分けに終わり、北大はくじ引きの結果九大に敗れ、七帝戦は最下位に終わった。

 現在、菊地は中学生以上を対象とした地域のコミュニティーセンターの道場で、週に1、2回汗を流している。もともと右組ではあるが、近年では左の内股や大外、一本背負といった大技も習得し、むしろ卒業してからの方が技のバリエーションと切れが良くなったと胸を張る。

 1991年から1996年にかけて赴任した、アメリカのケンタッキーにあるトヨタ工場にも柔道着を持参して出かけた。当時すでに40代の後半であったのにもかかわらず、100キロを優に超すケンタッキー大学の柔道部員たちを、左右の内股で片っ端から投げた。そして、自身の練習の傍ら、道場に通ってくるアメリカ人に柔道のイロハから手ほどきをした。彼はまず、腰を曲げずに良い姿勢をとることから教えた。言っても聞かない相手は、得意の左右のコンビネーションで投げ飛ばし、相手が菊地の実力を認めてからじっくりと教えた。その柔道の実力と、真面目で飾り気のない菊地の人柄は多くのアメリカ人の心を捉え、菊地が帰国する頃には、KIKUCHIDOU柔道スクールという名前が道場に冠されることになった。

 工場のすぐ側にはりっぱなゴルフ場があり、多い人では週に3、4回通っていたそうだが、菊地はまったく興味を示さなかった。理由は柔道をする方が面白かったからである。ケンタッキー工場に赴任した70人以上の日本人の中で、ゴルフに手を出さなかったのは、菊地ただ一人だけだったという。ケンタッキー工場に赴任中、菊地は一人息子とその仲間たちを道場に連れて行き、柔道を教えようと試みた。しかし、せっかくの企みも姉たちの一言で水泡に帰してしまった。

 「お父さんの耳や足つきを見てごらん。柔道するとみんなああなるよ」

 58歳になった今、菊地のモットーは長続きする柔道である。

 「右も左も、立ち技も寝技も、バランス良くさ。あとはいい姿勢で。無理をしなければ怪我もしない。あとは高校生に投げられても腹を立てないことかな。今?練習が楽しいねえ??」
 現役時代の腕力と瞬発力にものをいわせた、人の意表をつく柔道から、基本に則った自然体の柔道へ、勝ち負けの柔道から楽しむ柔道へ、菊地の柔道スタイルは長い時間をかけて成熟してきたようだ。(敬称略)

【きくち・ときひろ】栃木県大田原高校から昭和37年北大入学。経済学部卒。25才で結婚し、1男2女の父。トヨタ自動車で生産管理部門を20年以上勤める。長年の飲酒がたたって43歳時に急性膵炎で3カ月の入院を余儀なくされ、ドクターストップによりその後一切酒を断つことに。退院後、気力・体力の衰えを如実に感じ、充実感を求めて再び道場に足繁く通うようになった。趣味は骨董品収集、庭いじり、読書、そして柔道。


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■第4回・和泉唯信■カリスマ的魅力で道場内外を席巻した革命児

 北大柔道部は、その主将に数え切れないほどの駿才を輩出した。多くは圧倒的な強さを見せつけた偉丈夫たちだ。彼らは技を残し、戦績を残した。

 しかし、和泉唯信主将が残したものは哲学だ。道場での修行を通して人間的力を着け、それを社会で生かす。彼にとって道場は「北大柔道」という哲学の実践場所だったのだ。

 前監督の松浦英幸が北大柔道部の門をたたいた時、同期の中に黒縁の眼鏡をかけた小柄な男がいた。練習の後先輩たちに連れられて行った喫茶店でも彼はテーブルの隅で目立たぬようにスポーツ新聞に目を落としていた。「無口でまじめな男」というのが彼、和泉唯信に対する松浦の第一印象であった。

 しかし、この感想は半分当たっているものの、半分はまったく違っていたことを松浦は後に実感することになる。入部当時は勝手がわからず様子を窺っていた和泉も、新歓合宿が終わった頃から徐々に北大柔道部の水に慣れ、独特の強いオーラを放ちはじめるようになる。丸刈りで小柄な顔から意志の強い瞳が輝く独特の風貌、柔道に対する情熱と妥協を許さない練習姿勢、周りの人間を自分のペースに巻き込む人間的魅力と広島弁。和泉はいつのまにか同期の中でも常にイニシアチブをとる存在へとなっていった。

 和泉が柔道を始めたのは高校2年の6月であった。当時、柔道部のキャプテンと、「相撲で負けたら柔道部に入部する」という賭をして小内で負かされ約束を守って入部した。順調に初段をとったものの、高校時代は目立った成績は残せず不燃焼感が残った。ビー・アンビシャスの精神に憧れ、北大に入学を果たした和泉の足は北大柔道部に向かったのも自然ななりゆきであった。当時の北大柔道部は、体重別選手権60kg級で2年連続準優勝した濱田浩正をはじめ、65kg級で三位に入賞した福田康浩、佐々木紀、伊藤浩紀など小柄な選手が多かった。小柄な先輩たちが活躍している姿は、「わしも、いつか体重別で優勝したい」という希望を和泉の胸に灯した。

 和泉を語る際に避けては通れない出来事がある。それは和泉が2年目の昭和60年、敗者復活戦での対名大戦で初めて七帝戦の大舞台に立った時のことである。大将の和泉を残して勝つ予定のオーダーであったが、計算が狂い大将決戦となってしまう。相手は名大の強豪医学部6年目の鈴木。必死の覚悟で臨んだ和泉ではあったが、経験と実力差があまりに違う鈴木に抑え込まれた。根性で一度は逃げたものの再び横四方でがっちり抑え込まれ、その瞬間に北大の最下位は決定した。和泉は泣いた。札幌での慰労会では中谷了の胸に顔をうずめて男泣きに泣いた。

 「2年の時の負けは懲りたの。自分のせいで先輩たちに迷惑をかけたんが許せんかった」。この敗戦以来、和泉の柔道に対する意識は変化した。組み手を厳しくすることに徹底的にこだわり、どうしたら強くなれるかを研究し、さらに練習を積み上げることによって体力差のある相手とのハンデを補おうとした。体格的に小さく、背負い投げと小内以外に技のバリエーションはなく、寝技でも足はそれほどきかなかったが、組み手の厳しさと脇の固さ、生来の負けん気の強さと練習で培った精神力で、「負けない柔道・しぶとい柔道」という和泉の柔道スタイルが徐々に確立されていった。実際に、2年の名大戦の負け以来、和泉は重要な公式戦での負けはない。また、和泉が練習熱心だったことは有名である。当時監督だった岩井真は和泉を次のように評した。

 「和泉が流したような練習をしているのを見たことがないな。あいつの強さは、コツコツと練習で積み上げたものだと思う。あと、和泉には精神的な強さがあったな」

 同期の末岡拓也は和泉と一緒に札幌国際ハーフマラソンでアルバイトをしたときの出来事を懐かしそうに語った。

 「ランナーが倒れて輸血が必要になってしもうたんや。わしと和泉とで輸血せにゃならんことになって、ようけ血を採られたんや。わしはもうだるうなって、練習行くのやめよ言うたんやが、『人数少ないのにおまえは何を考えとるんや!』と、和泉にこっぴどく怒られての……」

 七帝戦では、和泉は同期の上野と二人で受けの切り札として活躍した。3年目の阪大戦は先鋒で出場し、極度の緊張の中、強豪山本ときっちり引き分けた。続く4年目の七帝戦においても、当時阪大の二枚看板の一人になっていた山本との再戦、及び東大の立ち技派の抜き役・道崎戦ともに堅い亀と強い精神力で危なげなく守りきり自分の仕事を全うした。また、5年目の優勝大会では、当時北海道で最強と謳われていた道都大学の193センチ・130キロの青柳と正面から渡り合い、得意の背負いと捨て身小内で終始攻めまくり引き分けた。自分の倍以上も大きい強豪と講道館ルールで戦い一歩も引かなかった姿は、和泉の後に続く後藤・竜澤・城戸・西岡らの世代に鮮烈な印象を残した。

 不幸にして、和泉の現役時代においては北大は七帝戦で一度も勝利することがなかった。しかし、誰よりも七帝戦での勝利を希求したのは、外ならぬ和泉自身であったと思われる。和泉は自分を含めて強くなることには非常に貪欲であったし、また主将として他大学と比べ体格的に劣る北大柔道部の戦力強化の方法をあらゆる面から模索し、悲願の七帝戦勝利を目指し続けた。

 真駒内にある道警の特練柔道部へ毎週出稽古に行き、さらには道内有数の強豪高である札幌第一高校や東海大四高・旭川竜谷高校とも積極的に練習試合をすることで、巨漢との取り組みに慣れるよう図った。和泉が主将になってから、北大道場は、和泉が自ら積極的に人脈を作った社会人や大学生・高校生たちの出稽古で熱気が溢れるようになった。また、山内コーチのトレーニングを本格的に取り入れ基礎体力を強化するプログラムを導入し、峯田レスリングコーチのレスリングテクニックを柔道に応用する土壌をつくった。かように、北大の外からの血を導入したことも、和泉の大きな功績である。

 和泉は持ち前のガッツと精神力の強さをかわれ、七帝戦では分け役としてキツイ相手とあたることが多かったため目立った戦績を残すことができなかったが、体重別の個人戦では大いに気を吐いた。3年目は60kg級で悲願の優勝を果たし、憧れの武道館の青畳に立った。しかし、4年目の体重別では疑惑の判定に涙をのんだ。

 「完全に勝っとったと思った。判定は頼りにならん。松浦は3年・4年と体重別でしっかり連覇したけ、羨ましかったの」

 負けず嫌いの和泉は、屈辱の3年目の敗退から発憤し、個人的に北海高校のレスリング部の練習に通い寝技の技を磨いた。「とにかく強うなりたい。負けたくない」。この怒濤のような意志は和泉の現役時代を一貫してつらぬいていた。レスリングの技を吸収し、捲土重来を期して望んだ5年目の体重別ではトーナメント開始早々、4年目と同じ審判の組み合わせで受けの強い札大の西藤と対戦することとなった。嫌な予感とともに試合に臨んだ和泉はなかなか有効なポイントをとることができなかった。内心焦りを感じていた和泉は終了間際、新たに覚えた左の小内巻き込みでついに効果をとった。4年目の悪夢を駆逐した和泉はその後オール一本勝ちで武道館への切符を手にした。

 2度目の武道館は初回にくらべリラックスして臨むことができ、地に足をつけて戦うことができた。初戦はレスリングの練習を通して覚えた左の袈裟固めで一本をとり、武道館で勝ち名乗りを受けた。2回戦目は、後に正力杯で優勝した大阪商大の小熊と戦い、効果を3本とられるもしぶとく戦えた。負けはしたものの、この一戦はのちに和泉の大きな自信となる。

 北大柔道部の印象を和泉は次のように語る。

 「わしにとっての、北大柔道部はふるさとのようなもんじゃ。先輩とか後輩とか、一緒に合宿したり、辛いことも楽しいことも共有できたけの。あまえることなく、自分で考え自分で責任をとってものごとをやる、ということを身をもって勉強させてくれたところじゃと思うわけ。社会という『道場』に出る前の予行練習をさせてくれた非常に大切な場所やったね。確かに勝ち負けは重要じゃけど、それが北大柔道のすべてじゃないと思うわけよ」

 柔道に惹かれ、人一倍強くなることを追い求め、北大柔道部という空間を愛してやまなかった男。あくまで自分に厳しい反面、後輩の面倒見がよく、同輩・先輩、指導者たちにまで好かれた男。独特のオーラを放ち人間的魅力で周りじゅうの人間を吸い寄せた男。

 「俺が道場に顔を出すときまって和泉は部室にいたね。黴臭い部室のフトンの中で寝たり漫画を読んでいたよ。彼は道場という空間が好きだったんじゃないかな」

 同期の上野哲生の言葉である。

 和泉は単に柔道が強かっただけではなく、柔道部そのものを愛し、その構成員である同輩や先輩たちと酒を飲みながら語り合うことを好み、また後輩たちを分け隔てなく可愛がった。低迷期の北大柔道部の底上げをあらゆる角度から検討し、部員たちにとっての最高の北大柔道部のかたちを模索し、地道な努力を重ねた。そんな和泉は明らかに一時代の北大柔道部の顔であった。

 卒業が決まり札幌から故郷広島に帰る際、和泉は便利な飛行機を避けあえて夜行寝台特急北斗星を選んだ。札幌駅のプラットホームには北大柔道部関係者をはじめ、多くの人々が見送りに集まった。和泉は、彼の愛した北大柔道部から見送られながら、夜汽車に乗って、自分の青春を入れ込んだ思いでの場所から少しでもゆっくり離れていきたかったのかもしれない。

 近きかな楡陵を去る日は
 還り来ぬ足跡愛しみて
 ひたぶると打笑む時ぞ
 求めつつ得べからざりし
 秀邃しき真理の道は
 はろかなり我等が前途
 進まざらめや

 後輩たちが歌う、和泉の好きな昭和21年度寮歌「時潮の波の」が小さく消えていった。

【いずみ・ただのぶ】広島県立日彰館高校から昭和59年北大入学。平成元年理学部数学科卒業と同時に徳島大学医学部へ。医学部柔道部で活躍。平成7年に広島大学第三内科に入局。平成11年からは実家である法正寺の住職を兼務。平成13年4月に徳島大学神経内科に招かれ、平成15年4月から医局長。実家の病院と社会福祉法人(合わせて570床)の経営代表も務める。平日は医者、土日は住職、さらには病院経営という3足のわらじを履く激務を、北大柔道部時代に培った体力と精神力で精力的にこなしている。住友病院時代に知り合った看護婦の順香さんと結婚し、現在一男の父。講道館5段。三次市柔道連盟会長。趣味はクラシック鑑賞。


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