小菅正夫「旭山動物園の奇跡はすべて七帝柔道から学んだ」完全版
(『ゴング格闘技』2009年8月号掲載)


七帝柔道出身の小菅正夫が、旭山動物園園長に
就任したとき、その入場者数は「どん底」にあった。
閉園目前だった日本最北の小さな動物園が、
月間入場者数で日本一になるまでには、
絶体絶命のピンチにブレない、確かな『理念』があった。
「スターシステム」に異をとなえ、
動物本来の魅力を引き出す「行動展示」を模索する。
小菅は、その驚くべき経営改革哲学を
「すべて七帝柔道から学んだ」という。
動物園はなぜ、必要なのか。そして格闘技は──。




文・構成◎松山郷

「日本一環境の厳しい動物園」
 かつて旭山動物園は、そういう場所だった。いや、今でも寒暖差が最大70度にもなり、1年の半分近くを雪に閉ざされる旭川の自然環境は、日本一厳しいことに変わりはない。しかし、今やこの日本最北の動物園の動物たちにとってその場所は、日本一環境のいい動物園になるのかもしれない。

旭山動物園のホッキョクグマ。年齢はすでにおばあちゃんのコユキ
 何しろ彼らには日々、「やりたいこと」が待っている。「やること」ではなく「やりたいこと」。あざらしは円柱トンネルの中を上下し、気に入った人間を見つけてはちよっかいを出し、ペンギンは雪道の散歩を心待ちにしている。オラウータンは、高さ17メートルの空中運動場で綱渡りにいそしみ、ホッキョクグマは水面に浮かんだ『あざらしもどき』の頭にダイブする。

 旭山には文字通り『客寄せパンダ』のようなスター動物はいないが、地元種を含むそれぞれの動物が「自分だけが本来持っている能力」を動物たちの意志で行なっている。

「行動展示」として、旭山動物園を入場者数日本一にしたこの展示方法には当初、「野生動物を見世物にしている」という批判の声があった。しかし、旭山動物園名誉園長の小菅正夫は、きっぱりと言うのだ。

「陳腐なショーはやらない」と。

 世間を賑わせた「立ち上がるレッサーパンダ」と、旭山の動物の行動は、何が違うのか? その答えの中にこそ、弱小動物園を「廃園」の危機から這い上がらせた小菅の理念がある。そしてその理念を小菅は「柔道から学んだ」という。

 ギョーザのように潰れた耳、厚い上半身に、ふっくらとした大きな手。

 6月第2週の土曜日、小菅正夫は七帝柔道戦に出場する母校・北海道大学の応援のため、東京・講道館にいた。

 七帝柔道は、帝国大学七校が寝技中心の柔道で15人対15人の団体戦を行なうものだ。

 作家の井上靖が自伝的小説『北の海』の中で「練習量がすべてを決定する」と書いた、あの柔道に北大時代の小菅青年も魅了された一人だった。


「北大柔道部に入りたかったから、北大を目指した。
 高校の新人戦でたまたま2位になったとき、『俺は強くなるんじゃないか』と錯覚して、北大柔道部で稽古をつけてもらうことにした。
 当時、主将から始まって入り口にずらっと並んで、俺たちも末端に正座させてもらえた。それで、稽古が終わってクタクタの時に、主将が『黙想』って言って目を閉じる、あの時の何ていうんか自分の心の拠り所というか、自分の『居場所』がここにあるっていう感じがすっときたんだね。『俺はここへ入らなきゃいかん』と強く思った」


 まるで『北の海』で四高柔道部に入るため、まだ入学もしていない金沢で三浪生活を続ける主人公さながらの情熱が、小菅にはあった。しかし、最初は北大柔道部が、高専柔道の流れを汲む『寝技ばかり』の柔道だとは、よく知らなかった。


「道場で白帯の先輩と稽古したら、僕がえらいいけた。ところが寝技になった途端ベコベコにされてね(笑)。『なんだ、これは』って」


 しかし、当時北大は五連敗を喫し、最下位定着のまさしく「どん底」。そんな最悪のときに小菅は主将を任される。当時の状況を小菅は、入場者数の減少に喘いでいた動物園の状況と似ているという。

 必要なのは自分たちが「何をしたいのか」という目標と、それを成し遂げるために「何をすべきか」という手段を明確にすること。そして、その決意を部員全員で共有することだった。

 北大柔道部の場合は3つの改革を掲げた。


「まず、どうして負けるかを洗い出した。そうしたら、ウチには、必ず勝てる『超ド級の選手がいない』、それに『勝利に対する執念が足りない』、遠征試合で『暑さに対する対応が出来てない』ことが、浮き彫りになった。
 北大は、どんぐりの背比べの選手ばかり。だから、僕らが目指したのは『絶対に負けない柔道』だった。
 団体戦なら、『一人の怪物は、一人の穴によって相殺される』って言葉があるとおり、スター選手も、一人の負けで帳消しになる。
 だから、延々と引き分け続けてやろうって。29秒寝技で抑え込まれても、29秒でなんとか解く、そういう稽古。絞めはとにかく、絞められても落ちない。
 それが負けない勝利への執念になる。
 あとは、暑くして稽古するしかない(笑)。だからずっと窓を閉め切って稽古をやったよ。そうしたらみんな酸欠でバタバタと倒れて。それでも止めなかったね。1回決めたことだから。
 だって、たった1年しか期限はないんだから。これは動物園でも同じだったけど、途中で『こっちの方がいいんじゃないか』っていう迷いが必ず出てくるんだ。それでもそこには行かない。
 いったんみんなで決めたら、とにかくその1年はやりきる。
 あと、もう一つ決めたことがあった。『必ず同期と稽古をすること』。やっぱり上級生は下級生と練習しちゃう。『稽古をつけてやってる』じゃ、上級生にとってレベルアップに繋がらないんだ。
 だから僕らは同期で死ぬほど稽古した。そうすると感情が湧くんだ。同期同士で、ある選手が腕を本当に厳しく取った。
 取られた方も目に涙を浮かべて『貴様を落とすまで止めん』って言ってね。3本か4本死闘を繰り返したよ。
 でも、そういう死に物狂いの稽古を誰かがやってると、道場全体が締まる。下級生はその隙間を狙って、より強い人と稽古をしなさい、と。みんなで話し合って、あとはバカと言われようと、何と言われようとやり続ける。
 そうするとレギュラー以外の選手も最後まで一緒に戦えるんだ……僕の同期にも、体が小さくて弱くて、故障ばかりのやつがいたよ。
 同期の連中は、そいつをなんとしても最後まで連れていくぞ、試合に出すぞって……別にいちいち話し合うわけじゃないけど、みんなそう思ってた。彼はついていくだけでそうとう苦しかったと思う。それでも歯を食いしばって稽古してたね」


 不要な選手は一人としていない。必ずどこかに生きる場所がある──この思いは、後の旭山動物園改革の方針にもなる。


 昭和47年、小菅主将最後の七帝戦は、1年間の練習で積み上げた集大成になった。


「宿舎から出て試合場に行くまで、人生であれほど緊張したことはない。顎が上がらないぐらい震えてしまってね。
 同期の奴が後になって『お前、何をあんなに怒ってたんだ?』っていうぐらい緊張感に縛られた。
 ところが試合場に入って、柔道衣に着替え畳の上で受け身して、みんなを呼んで『やるぞ』って言った瞬間、いつもの稽古をやってる自分に、一瞬にして戻ったんだ。61年の人生の中で、あんなことは初めて。柔道ってすごいね」


 大会は、1試合目の東大戦で小菅が1人抜き1人分け、以降も北大はしっかり『負けず』に東大の『超ド級』三本松進戦まで3人を残した。1人目が三本松に「壊されるように頭から落とされて」負け。2人目も「100万トンの抑え」でガッツリ抑え込まれる。最後の大将戦は、小柄ながら「北大史上最強の分け役」佐々木洋一(後のコーチ、中井祐樹育ての親)が三本松をビタリと止めた。続く、引き分け代表戦では、『北大、主将を出せ! 勝負に来い』という怒号がとびかう中、小菅は三本松に3人の分けの強い選手を指名。見事、引き分けた後に抽選の場に、「堂々と出て行って、じゃんけんで勝って、上を引いて」勝利をつかんだのだという。

 続く阪大にも「1年間、北大柔道部がやってきた絶対に負けない柔道」を貫き、全員引き分け。またもや抽選は主将が引き当て、決勝進出を決めた。
北大柔道部主将時代の小菅正夫(左)。七帝戦決勝の京大戦での勇姿。

 決勝戦、引き分けギリギリでそこまで勝ち上がってきた北大に余力は少なかった。京大は、『北大はきっと同じ戦法でくる。1人でも抜かせたらヤバい』と、大将に全てを賭け、あとは「見事に先鋒から副将まで14人すべて引き分けてきた」という。大将戦では、チームが認める『絶対に負けない佐々木』が満身創痍の体で、その日、初めての試合となる京大の超弩級・赤澤英志郎に、執拗なバックからの攻撃に脇をすくわれ、そのまま回転縦四方固に入られ負けた。やることはすべてやった小菅は「見事に負けた」と、むしろ晴れ晴れしい気持ちだったが、振り返ると部員たちはみな、オンオンと号泣していた。

 スター不在、万年最下位で「ゴミの北大」と呼ばれた雑草軍団が「負けない柔道」「滅私のチームプレー」で確かな手ごたえをつかんだ瞬間だった。

 柔道浸けの毎日を送っていた小菅は、七帝戦後の脱け殻のような状態からようやく覚めた3月、「たまたま求人があった」旭山動物園に獣医師兼飼育係として就職する。開園6年目の73年、同期と呼べるのは、設立メンバー7人とは別に1年前に、『押しかけ』入園していたあべ弘士だった。現在、日本を代表する絵本作家の一人として活躍するあべ(代表作『あらしの夜に』)とともに、小菅は「ただただ、目の前にいる野生動物の魅力に惹かれていた」という。


「何もわからないで入ったけど、もともと動物が好きだったから、とにかく動物をきちんと飼って繁殖させて、しっかりやっていこうということだけで、お客さんが入ってるとか、動物園の役割がどうこうとかは何も考えなかった」


 希少動物の繁殖する動物園として高い技術を誇り、入園者数を増やしていった旭山動物園に旭川市は83年、ジェットコースターなどの大型遊具の導入を決める。動物園のレジャー施設化だった。その年の入園者数は過去最高の59万7千人を記録。しかし、その効果は長続きしなかった。動物園本来の客層とは違う入場者は新鮮味を失った遊具にすぐに飽きてしまう。客を増やし続けるには、まるでドーピングのように新しい遊具を入れ続けなければならない。83年をピークに入園者数は減少の一途を辿っていく。それと逆行して、高価な設備投資費用は赤字負担として残っていった。

 まるで、どこかで聞いたような現象だ。本質から目を逸らし、その場しのぎのモンスター路線で話題を呼び、ファンの信頼を失った格闘技と似てはいないだろうか。そんな格闘技が、再び会場にファンを呼び戻すのにどれほどの努力が必要だろうか。

 86年、係長になった小菅は、ひょんなことから旭山動物園の新しい基本計画を作ることになる。


「係長になった時に『ジェットコースターをやってもダメで、そろそろ市役所も動物園を止めようと思っている』という声が聞こえてきた。どうやらこのまま閉園になるだろう、という噂まで出てくる。
 そんなときに、なぜかよくわからないけど、本庁の偉い人が動物園に話に来たんだ。その時に『君たちはこの動物園の将来をどうしようと思ってるんだ』って聞かれて、僕は『どうしようって、しっかり『動物園を』やっていきますよ』って言ったんだ。
 そうしたら、向こうは『しっかりやっていくって言ったって、お客さんが入らないんだから、話にならないだろう。他の所はチンパンジーのショーをやっているし、仮面ライダーショーもある』と、目先のことばっかり言ってくる。
 だから僕は、『そんなことは絶対にやらない。俺にはもっとやりたいことがある!』って啖呵を切った。
 そうしたら、その部長さんが『じゃあ、小菅君を中心にやればいいじゃないか。君が計画を立ててまとめてみたらどうだい』と園長を飛び越して決めてしまった。それで、こっちも『わかりました』って言って、当時10人しかいなかった飼育係を呼び集めて──そこからは柔道と一緒だった」


「柔道と一緒」──北大柔道部をチームとして再生させた小菅は、旭山動物園を舞台に『七帝戦』を再び行なおうとしていた。月1の勉強会は、いつしか毎週行なわれるようになっていた。


「『どうしてお客さんが来ないんだろう?』『なぜ動物園は面白くないのか?』そういう疑問を洗っていった。でも、みんな内部にいるからやっぱりわからない。『お客さんが何を求めてるのか?』そういうことを考えてる時に、いろんな人と話したら、そもそも動物園を否定してる人たちがいることが見えてきた。
 それは、『動物の自由を奪って閉じ込めて、人の見せ物にしている動物虐待施設である』とまで言っている人もいた。
 でも、それは動物園の中にいる僕らが持ってる動物の印象とは全然違うわけ。近くで接している僕らは、動物って檻の中にいようが何しようが、一対一で向かい合った時には、これはもう凄い緊張感で向き合わなくちゃいけない。ホッキョクグマと一対一になった時なんて、もう向こうが倒れるか、こっちが倒れるかでしょ。
 だからそういう野生動物としての、もの凄い迫力ある姿をわかってねぇなあって思って。でもいや、それは『向こう側』に『伝わってない』なって思い始めたんだ。そこには、見せる側と見る側にギャップがあった。
 だからそのあたりを伝えられればいいだろうって。
 あと、『面白くない』理由で多かったのは、『動物園に行っても、みんな寝てばっかり』という声だった。『じゃあ、寝てない姿、たとえば食べる姿が見られたら、あるいは寝ているところを違う角度から見られたら面白い?』って聞くと『それだ』って言う。『抱っこしたい』って言われたら、野生動物は無理だけど、家畜ならそういう特性を持っているから、直接、命の鼓動を感じてもらえる。
 要するに、どうしてダメなのかっていうことさえきちんとわかれば、それを取り除いていけば絶対良くなる。そして次に『打つ手』を決められる。
 僕が北大で主将になった時に、『これが原因だと思う』『それじゃあ、これとこれなら俺たちが出来るから、まずはそれをやろうよ』って直したのと同じだよ。
 だって『超弩級』をいきなり連れてくることなんて出来ないんだから。それに期待したらダメ。
 まずは、自分たちが出来る範囲内でやれることをやる。そのときに、やっぱりチームで意識を共有しなくちゃいけない。『いいか、確認するよ。みんなでやるんだぜ。10年、絶対やりぬくよ』って。
 なんで10年かっていったら、10年以上やってだめだったら、そんなもの疲れるから止めようって期限を決めることが大事なんだ。
 そのかわり、10年だけは絶対やる。『1年間やる』って決めた七帝柔道のように、やっぱり僕はゴールがある方がいいと思う。その方が走れるから」


「やれること」の最初に決めたのは、動物舎の前での「飼育係によるワンポイントガイド」だった。施設を新しくして動物との距離を物理的に縮めることはできないが、動物との「距離感」を縮めることは可能だった。「伝える」努力をすることで、飼育係と客の、動物に対する温度差を少しでも埋めることができるはずだ。そして、そのガイドを聞いた客は、「動物園の味方」になってくれるかもしれない。しかし、人前で喋るのが苦手だったり、仕事の範疇を超えていると不満を口する者もいた。

 団体戦では、それぞれの役割分担がある。それを1人でもこなせなかったら、七帝戦では勝ち星が帳消しになる。同じ意識を職場でも持つことは可能だったのか。


「半年間、話し合って10年間やり続けるって言っても、みんながみんな大賛成したわけじゃない。どうしても途中で日和る人間は出てくる。
 ある時、台風のような大雨が降ってお客さんがいない日があった。俺は係長っていったって、周囲はみんな先輩ばかり。先輩が『小菅、今日は客がいないんだから(ワンポイントガイドを)休むぞ』って言う。『なんで休むんですか?』って聞いたら、『客がいないのに喋ったってしょうがないだろ』って。
 俺も『何言ってるんですか? 何があろうが1回も休まない。やるって決めたじゃないですか』『誰が聞いてるんだよ?』『いやいや、猿が聞いてますよ』って(笑)。その間に、僕は若手に『園内から誰か連れてこい』って耳打ちして、そうしたら、あの雨の中、4人だけお客さんがいた。
 カップルが2組。『いましたよ。やりますよ』って言って、さる山を前に、その4人を飼育係全員で囲んで、『聞いてください』って言って。
 その係員も逃げられないように蓋した(笑)。ずぶ濡れになりながら、サルの説明をしましたよ。でもね、そういう人がやると、もう他の不平を言っていた人も諦めますよ。もう絶対に休めないんだなって。
 退路を絶つことも必要なんです。ワンポイントガイドは、飼育係全員がやることに意味があったから。
 方針を決めたら、あとはその人なりのやり方で自由にやればいい。僕もそうだったけど、寝技が強い選手が『俺は絶対、寝技はやらん』って言ったことはないから。好きなことをやればいい。ただし『負けなければいい』んだ」


「一人が1日10人の味方を作ること」を合い言葉に、自分の得意分野で『勝負』する。飼育係にとって当たり前のことでも、一般の客にとっては新鮮な話も多く、いつしかそれぞれの個性ある語り口にファンもつくようになっていた。そして、動物を身近に感じた客との距離も確実に縮まっていった。年々、入場者数が減っていたこの頃、手ごたえは……。


「ありましたよ。だって顔見知りのお客さんが出始めたもん。ある時、ビデオで僕らの解説を撮ってる人までいた。『それ、どうするんですか?』って言ったら、『学校の教師なんですけど、これをまとめて子供たちに見せようと思って』って言う。
 まず、満足度が上がっているのがわかった。それから、少しずつ入場者数のグラフがフラットになっていった。
 それで、みんなに『やっぱり大丈夫だよ、旭山動物園のファンが着実に増えてるよ』って伝えて。お客さんから『次はあの人の番ですね』って聞こえてくると、ガイドする方もやる気が出てくるでしょ。
 当時、そんなことをする動物園は無かったんだ。本当に『畳の上に乗る』前に、やることを決めて10年間しっかりとやれてきたことが良かったと思うよ」


 動物の本当の魅力を「伝えること」。小菅はワンポイントガイドの以前から安易な方法は取らなかった。81年、小菅はあべとともに、機関誌を創刊する。『モユク・カムイ』、アイヌ語でエゾタヌキを意味するこの雑誌は、表紙絵をあべが描き、文章を小菅が書いた。


「本庁の印刷所に持って行って印刷を頼んだら、紙は買ってこいという。参ったな、と困っていたら、PTAのお母さんたちの会から『動物園の話を聞きたい』って依頼があって、『行きますけど、申し訳ないんですが、紙をくれませんか?』ってお願いしてみた。『ああ、そういうことなら』って快く用意してくれたよ。
 すると、その評判を誰かが聞いて、いろんな幼稚園から、『紙1万枚用意しましたから』って(笑)。それで『55kgの斤量できますから』と言ってくれる。自分たちでその紙を持って行って印刷してもらって、職員みんなで手で折って製本した。それを小学校に配ったりした。
 今でも『モユク・カムイ』は続いている。『動物ってこうなんだよ。俺たち動物園の人間はこんなことを考えてるんだよ』ってことをどうしても伝えたかった。
 最初の頃に作ったのは、今から見ても恥ずかしいくらいに肩が凝ってる。もう力が入りすぎてガチガチ。
 でも作っていくことで、だんだん伝えることはこういうことだって分かってくる。やっぱり溶いて解して、ちょっと光を当てて魅力的にしてね。
 あべは今、絵本作家になったけど、たぶんあれを作りながら、読者の気持ち、どうやれば相手に伝わるのかっていうのを、考えたんだと思う。だから、彼が一番得したんじゃないかな(笑)」



「負けない柔道もある」──寝技中心の北大柔道部出身の小菅正夫がのめりこんだ七帝柔道は、その後の小菅の生き方の指針となっている。


 それは古の武道の考え方に近いのかもしれない。たとえば沖縄空手では、「誰も勝ち続けたままやめることはできない。手(テイ)は絶対に負けないという考え。勝たなくてもいい」のだという。


 格闘技でありながら、15人対15人の団体戦で、「抜き役」と「分け役」がある七帝柔道では、分け役が引き分けるのと、抜き役が勝つのとその価値は同等にある。格闘技は本来、一本勝ちを目指すものだろうが、そのチャンスをつかむためにも「一本を取られない」ことは大きな意味を持つ。


「次」に繋ぐために、決して「参った」だけはしない。寝技で“待て”がかからない七帝では絞めは落とすまで続けられる。いかに抜くか、あるいは分けるか。選手は常に柔道について、ひいては自分と他者のありかたについて考え続けることになる。


 その問いは、七帝柔道出身者にとって、競技としての柔道を離れた後も続いている。


「団体戦に慣れ過ぎたせいか、自分ひとりで七帝戦をやっているような感覚がある。常に何かを背負っているような──」


 そう語るのは、北大柔道部で小菅の20期下にあたる中井祐樹だ。


 14年前、総合格闘技の黎明期に、わずか70kgで無差別級の「何でもあり」のワンデートーナメントであるバーリ・トゥード・ジャパンに挑んだことも「形を変えた七帝戦という感じがします。何かのためにやってる……たぶん、あの時は修斗でしょうね。それに軽量級を背負ったってところもちょっとある」(『月刊秘伝』08年11月号)と振り返る。


 廃園の危機にあった日本最北の動物園で、改革を続けた小菅も「やり方は七帝柔道と同じだった」と、きっぱりと語る。


「まず、理念を決めて共有した。俺たちは、こういう動物園にするんだということを、あべ(弘士)や牧田(雄一郎)らと徹底的に話し合った。そして、それを実現するために今から具体的に「やること」、いつか「やりたいこと」、さらに「やらないこと」も決めたんだ。そうすると、前に進める。チームには新人を1人加えた。俺たちの世代ですべて実現できると思ってなかったから。何にも染まってない、次の世代を先導する若いやつを絶対1人いれておこうと。それが新人の坂東元君(現園長)だった。

旭山動物園の少子化対策でカナダから来園したオオカミ、マースとケン

 何をやるのか? 命を伝えるんだと。その命の何を伝える? 命の輝きを伝えるんだ。じゃあペンギンならどうやる? 彼らの凄さを伝えるには、その能力を遺憾なく発揮しているところを見せようって。


 とにかく、動物園は一般の人にとって、信じられないくらいどうでもいい存在だった。格闘技も同じかもしれないけど、それは、動物園に入ったばかりの自分と同じで、普通の人は動物のことをまったく知らないから、その凄さを感じることもできない。じゃあ、どうしたらその凄さを実感してもらえるのか? それを最終的には飼育係全員で考えて実行したことから、旭山動物園再生の第一歩が始まったんだ」


 動物園は「命の博物館」だ。生きて食べて死んで土に戻る。そのプロセスが、見ている人間自身にも繋がっていると実感できたら成功だ。しかし、同時に動物園は有料入場者を入れるレクリエーション施設でもある。この構造は、興行と競技の間に揺れる格闘技と似てはいないだろうか?


「そうだね。僕も、動物は見せる。ただ、見せることによって動物に影響を与えてしまうようなことは、絶対にしない。すべては動物の意思で行なわれる。冬のペンギンも扉をただ開けるだけ。散歩に行くかどうかはペンギンが決める。アザラシがガラスの円柱を通るのも同じ。彼らはとても好奇心が旺盛なんだ。


 お金を取って見せるためにやる格闘技は、お客さんに「何を見せるか」ですよね。「作り物」を見せたってしょうがない。様々な技を得意とする格闘家がいるように、動物にもそれぞれの習性がある。ウチでは、作られた芸のようなものを見せることは、絶対にしない。そのために、野生動物のことをよく調べて知ろうとする。彼らがやりたいことをやるときが一番、輝くわけだから、その理由を我々がしっかり説明できなきゃダメなんだ。もし、野生動物本来の行動と異なることを教えてやらせたら、もう本当に陳腐なショーになってしまう」


「バラエティ」の名の下に、「買い物をするチンパンジー」や、「立ち上がるレッサーパンダ」がしばしば人気者となる。しかし、野生のレッサーパンダは、普遍的に何十秒も直立したり、立って歩いたりはしない。


「あのブームの後に何が残ったのかをよく考える。『ここのレッサーパンダは立たないから、つまらない』、それがレッサーパンダの見方になってしまっていないだろうか、と。あれは野生動物が「芸」を見せたに過ぎない。その瞬間は喜んでもらえても、その芸に飽きたお客さんが背を向けた後に、動物への理解は何も深まっていない。そこに動物園が動物園である存在理由はあるんだろうか」


 いかに対象を見つめ、伝えるか。


 たとえば、旭山動物園の高さ17メートルでのオランウータンの綱渡りは、人間からすればハラハラ見えるかもしれないが、オランウータンの握力の桁はずれの強さと習性を知れば、それは驚異と畏敬のまなざしに変わる。木の上で生活する「森の人」は、どんな状況でも手を離そうとはしない。成人男性の握力の平均値は40キロ後半だが、オラウータンはメスでさえ握力が400キロ以上もあるのだ。


 しかも、綱の握り方は「ダブル・ロック」と呼ばれる二重に握り込む方法。小菅はそれを最初に知ったときに、すぐに柔道の組み手を思い浮かべたという。


「あれは、柔道の襟を取る握りと同じだね。こうして襟を握って、もう一度、手首をひねる。これなら親指を使わなくてもいい」


 言葉の端々から溢れ出る、柔道と野生動物への思い。動物を知ることは、すなわち生き物としての人について考えることでもある。


「野生動物からは学ぶことばかりだよ。たとえば、多くの人間は死をむかえるときにうろたえてしまうけど、死ぬときの野生動物は頑なで潔くて脆い、こんなにすごい命のありかたがあるのか、といつも驚く。彼らが死の間際に苦しくないはずがない。解剖して見れば、その神経系は人と変わらないから。でも「痛い」というそぶりを見せれば食べられてしまうから、辛さも痛さも飲み込む。本当に命がけなんだ。


 その点、人はどっかで安心してる。僕も七帝戦で命かけてやってたらもっと頑張れたかな、と思うよ。人は簡単に抑え込めるけど、動物を簡単に抑え込むなんて出来ない。シカだって僕の頭上を軽々と飛び越えるんだから。野生動物は、死ぬまで戦う。生への執着を最後まで見せる。瞳孔がこんなに開いてるヒョウでも最後までずっと立ってるからね。それで、いきなりバタン!と倒れるんだ。人間だったらフラフラッと倒れるでしょ。あれは安心しているから。俺が倒れたって、周りはきっとそんなに酷いことしないだろうっていう意識がある。でも、野性動物は違う。もっとシビアなんだ。よく人は自然に憧れるけど、本当の自然は人間の僕たちには、想像も出来ないほど厳しい世界なんだよ」


 動物の命を伝えること。それを、旭山動物園の共通の理念として掲げた。しかし、小菅が園長に就任した当時、市が動物園の声に耳を傾けることはなかったという。


「動物園に金を出すのはドブに金を捨てるようなものだ」と囁かれる中で、職員たちはそれでも毎日ワンポイントガイドを続け、プランを練り続けた。


 最初に「旭山動物園基本計画」を出したのが89年。提案はまったく受け付けられなかった。


「畳の上に上がれれば、こっに引き込んだり、「負けない柔道」で粘ればいい。でも試合に行ったはずなのに相手がいない。相手にされないと、自分がやっていることに果たして意味があるのかと感じられた」


 94年、小菅は市長との直接の面談のチャンスを得る。最初の交渉に“丸腰”で臨んだ小菅は、旭川市になぜ動物園が必要なのか、という大前提から説明し始めた。


「止めろと言われるまでずっと話しをしようと思っていた。そうしたら、市長さんは随行の方に『2人だけで話すから部屋から出てください』とサシにしてくれたんだ。何度もメモを持って市長のところに人が来るけど、それをずっと握り潰して聞いてくれて、最後の最後に『園長さん。いろいろと教えてくれてありがとうございました』って言って、『旭山動物園のことをずっと考えていました』と。……俺たちがやってきたことは届いていたんだな、と思って外に出たら、秘書にずいぶん怒られたね。『もう2時間も過ぎてますよ!』って(笑)」


 初めて予算がついたのが96年。7年越しの資金を得て最初に取り組んだのは、とても地味ながら、小菅たちの考えを表した小さな施設を作ることだった。


「『こども牧場』。ここでウサギやヤギに触れることができる。命なんて簡単には人に教えられない。増してや命の多様性となれば意味が分からない。それは自分で認識するしかないんだ。直接、触れていろんな生き物の中に、自分の中にも、それが入っているんだと感じてほしかった。生き物に多様性があるということは、それを育んでいる環境の多様性がある。それが地球なんだ、と順を追って伝えたかった」


 翌年に作ったのが「ととりの村」だ。


 高さ14メートルの大きな鳥かごで、3千平方メートルの敷地を囲う。通常、動物園では鳥の翼の一部を切って、飛べないようにすることで、人が鳥を近くで見れるようにしていた。しかし、この「ととりの村」では、翼を切ることはせず自由に飛べるようにしたことで、逆に人が近づいても鳥はギリギリまで逃げようとせず、人も間近で鳥を見ることが可能になった。さらに、飛ぶことができるようになった鳥は、本来の姿を取り戻したため、繁殖率まで高まったという。


「簡単なことなんだ。鳥は飛ぶために進化した生き物なんだから、飛ばしてやったほうが幸せに決まってる(笑)。たまたま読んだ雑誌に冬でも結氷しない魚網が載っていて、それなら動物園でも冬に雪が積もらない大きな網を張れるなって気付いた」


 それぞれの動物に多様性があり、それぞれに役割分担があることで、全体として調和する。人と人もそれで結びつける。そう肌で感じたのも、小菅にとっては七帝柔道からだった。


 北大時代、史上最強の「分け役」として活躍した小菅の一期下の佐々木洋一(後のコーチ、中井祐樹育ての親)は、小菅と話し合ったチーム論が忘れられないという。


「虎の穴に入ってくる人間は、既に選ばれた虎の子であることが多い。今の柔道界はそういう虎の穴を作りたがっている。全国から強い奴、初めから素質のある選手を呼んで英才教育で育てる。でも、北大はそれをやらずに狼を育てようと。北大に入ってくるのは虎じゃない、狼ですらない。羊の群れだ。それを虎にするのは所詮無理な話。でも狼に育てることはできる。1頭の虎の子を見つけ出し本物の虎を作る努力を羊に対してすれば、10匹の狼ができる。その10匹の狼は1頭の虎というより強い。虎の子中心の練習では、10匹の狼は作れない。どこのチームも怪物を求めてる。確かに怪物が入ってきたら、その瞬間は強くなるけど、それが抜けたらガクっと落ちてしまうよ」


 怪物がいることで、周囲の選手がその怪物に頼ってしまうこともある。それぞれの狼が特性を活かし、役割を果たすことで、チームとして強くなれるのだ。


 小菅の「負けない柔道」も「分け役」の重要性を説く。


「人は勝てると思った途端に隙が出る。当然そこには落とし穴がある。負けちゃいけない勝負のときにそうするか。引き分けにものすごく大きな意味があるんだ。勝ちは相手の度量と相対的な差になる。絶対的な差なんてありえない。所詮、自分より強いやつがいたら負けちゃうんだ。だから勝ったからって威張るもんじゃない。勝ったのは相手が弱かっただけ。それよりも引き分けは自分の意志でできるから、意味がある」


 旭山の動物は、アザラシやエゾシカなど3分の1が北海道産だ。そこに飛び抜けたスター動物はいない。人が勝手に動物の価値を決めたことで、日本の動物園は行き詰まりを見せた。ブームを追いかけることを止め、それぞれの動物本来の習性や能力を引き出す、旭山の「行動展示」は、見せたいものをいかに伝えるかのお手本のようなものだ。


 小菅はそもそもスターシステムを信じていない。


「ウチは本当、七帝と一緒さ。超ド級の選手なんかいらない。みんなで引き分けを目指せばいい。だけど、よくよく考えたらその生態の中では、みんな常にナンバーワン、オンリーワンなんだ。だって、今この地球上で生き残ってるっていうことは、一番、二番っていう順番でなく、全部一番なんだから。水の中に入った途端、多くのアザラシに敵うものはいない。ホッキョクグマでも敵わない。それがアザラシの凄いところなんだ」


 廃園の声が挙がったとき、市長を説得したとき、常に小菅が自問自答し、周囲に訴えたのが、動物園の存在意義だった。


「『動物園は社会的な役割を失った』と言われたことがあった。どういう意味なのか、とても苦しんだ。勉強して考えたよ。動物園は本当に意味のない施設だろうかって。動物園には3千年の歴史がある。アジア、ヨーロッパ、アメリカ、それぞれに自然発生的に生まれている。この間、本当に人間社会が動物園を必要としなかったら、現在まで残るはずがない。


 かつて森から飛び出した人間が、草原に都市国家を作った。周りの野生をすべて拒否して人間というひとつの種だけで暮らし始めた。そうすると、人間の動物だった部分、いろんな生き物の中で、木の上で暮らしていた、その心の奥底が不安定になって、いろんな諍いが起きた。その時に、その心を一番慰めてくれたのが動物だったんだ。都会のど真ん中に動物を入れて『俺たちも一緒に自然の中にいるんだな』という安心感を得る必要があった。


 だから動物園に来てごらん。どんな人でもみんなにこやかで、動物の前ではみんな素直になる。それが動物園の存在意義だ。人類は必要としないものは絶対残さない。だから動物園も必要なんだ」


 だとすれば、格闘技が今、この世に存在する意味も──


「同じだと思う。それを人が必要としているから。人はずっと戦ってきた。ほかの生き物とも。その動物としての記憶があるはず。格闘技で肌を合わせるのと同じように、哺乳類は一般的に、周囲との関係性から自分を確立していく生き物。他者がいなければ、自分も分からない。動物を見ることで自分と野生動物が、実は繋がっていることをどこかで確認したいと思うように、格闘技をやることで、人は自分が何者なのかを確かめたいのかもしれない。


 と同時に、その闘争本能を制する武道も人が作り上げた。自分の体を鍛えるということは、相手に勝つんじゃなくて、自らに克つことでもあるよね。それを僕は、柔道から肌で感じた。武道ってそうでしょ。そこのところを忘れちゃいけないと思う。ただ凶暴に暴れればいいっていうもんじゃない。自分がどこまで極限まで強くなれるか。僕だって弱いけど、自分自身に克って自分にとっては極限まで稽古したっていう意識は、とても生きる力になる。当然、その人によって“極限”は個人差があるけど、意味は全く同じだと僕は思うんだ。五輪の柔道を見たら、七帝を『こんな柔道』って下に見る人もいるかもしれないけど、そういう人は全く武道を知らない。この何をやってもいい柔道で、自らの弱さを鍛え上げて、どんなところに行っても“負けない”という精神を見つけるのは、僕はこの柔道が一番だと思ってる。勝つ必要なんかないんだ」


 動物園は、格闘技は、社会に必要ですか? 小菅は胸を張って「必要だ」と言えるよう努力をしてきた。小菅の持論だ。


「努力は報われないかもしれない。しかし、努力をしなければ絶対に何も生まれない」


 そして、その努力の仕方を七帝柔道で知った。小菅は言う。


「日本には戦前20頭のゾウがいた。戦後、3頭しか残らなかったけど、当時、名古屋の東山動物園にいた2頭のゾウを見るための列車が東京から出ている。終戦からまもなく、食べるものにも困っていた時代だよ。そんなときに人はなぜ、ゾウを見るために人は足を運んだんだろう。あるいは、戦後の柔道の日本選手権になぜ、あれだけの人が集まったんだと思う?」


 きっと、そこには生きる希望があった。みんな命そのものをそこで感じたかったのだ。
 

 (『ゴング格闘技』2009年8月号・10月号掲載)
 
 
【小菅正夫プロフィール】Kosuge Masao、1948年、北海道生まれ。旭山動物園名誉園長。北海道大学獣医学部卒。北大柔道部時代は主将。北大元コーチの佐々木洋一は小菅の1期下、中井祐樹は20期下、山下志功は23期下、増田俊也は17期下にあたる。73年、獣医師として旭山動物園に入園。飼育係長、副園長を経て95年に園長就任。入場者数の減少で閉園危機にあった日本最北の小動物園を東京の上野動物園を抜く入場者数日本一の動物園に育て上げた。その軌跡は『プロジェクトX』『旭山動物園物語』などで取りあげられ、国内のみならず海外の動物園関係者が「行動展示」という画期的な動物園展示革命を見学に訪れている。09年4月に定年を迎え、生涯を動物園に捧げるために名誉園長に就任した。著書に『戦う動物園』など多数。専門はオジロワシの野生復帰。