佐々木洋一 〜高専柔道の技術を引き継ぎし七帝柔道の技術


武道月刊誌「月刊秘伝」に掲載された佐々木洋一さんの記事。
なぜ高専柔道が寝技の攻防が多いのか?という疑問に対する答えや、
北大柔道部における練習の"流れ"の変化を、そして、
高専柔道における「寝技」についてを、
現役からコーチ時代までの経験を交えつつ「寝技仙人」と呼ばれる佐々木さんが語る。

---------------------------------------

■東京五輪が転機に■

「昭和27年(1952)に七帝戦が始まった当初から戦前の高専柔道ルールをそのまま引き継いでいたわけですが、はじめのうちは寝技ばかりの攻防が戦われていたわけではないんです。もちろん講道館ルールでやってる普通の大学よりは圧倒的に寝技が多かったのは確かですが、立技で勝負する選手もいた」

 こう語るのは、北海道大学柔道部OBの佐々木洋一氏。

 もちろん、氏の入部された昭和45年(1970)には、すでに寝技中心の乱取りが主流となっていた。

「高専柔道も黎明期はそうだったようですが、最初は立技をやる者もいた。それが15人抜き勝負での引き込みありのルールでの分け役の重要性が認識されて寝技ばかりの練習に移行していった。とくに本格的な転機となったのが、昭和39年の東京オリンピック無差別級でのヘーシンクの優勝です」

 現代に続く様々なスポーツ競技の世界で、大きな転換点となる東京オリンピック。

 柔道においては一際大きな衝撃を与えたのが、オランダのアントン・ヘーシンクに敗れたことだった。

 ヘーシンクは、五輪無差別級決勝で神永昭夫選手を袈裟固で抑え、本家の威信を失墜させた。

「これを見た高専柔道の先輩方が『なんだ!』と。それで先輩たちも本気で、自分たちが練り込んだ緻密な寝技技術を後輩である七帝の学生に教えてくれるようになった。これで七帝は完全に寝技だけになっていった」


■小菅正夫主将の大改革■

 当時もっとも寝技の練習量が多かったのは岡野好太郎師範(金光弥一兵衛の前の旧制六高師範で旧制名古屋高商師範もつとめた)が指導していた名古屋大学。

 北大は、七帝の中では立技にも練習時間を割いている方だった。

「講道館ルールの全道優勝などはしていたけど、七帝ではあまり勝てなかった。これを改革したのが、私の一期上の主将だった小菅さん。小菅さんが一気に寝技の練習量を倍にしたんです」

 日本最北の動物園を日本一の入場者数にした、あの旭山動物園前園長の小菅正夫氏(昭和44年入学)である。

 小菅氏は動物園を再興させた様々なアイデアの源泉は、すべて北大柔道部の改革時に学んだことだと雑誌インタビューに答えている。

 高校時代から柔道を始めてはいるものの、三浪で入学したことですっかり体力の衰えていた佐々木氏は、寝技ばかりの練習に面食らいながらも、錆び付いてしまった自身の立技に換わるものとして寝技の吸収に努めるようになる。

「私が高校の頃に井上靖の『北の海』が新聞に連載されていて私も読んでいたんですけど、それと北大柔道部(七帝大)との関連は当時まったく知りませんでした。だから、なんでこんなに寝技ばかりやるのかなぁと思って訊くんですが、当時はただ『伝統だ』としか言われなかった。

 北大にも戦前の北大予科からの寝技技術というものは一部残っていました。また、予科時代のOBが来て教えてくれるのですが、当時私たちもまだ若かったから『じいさんが何言ってるか』というのがありましたから、あんまりちゃんと訊かなかったんですね(笑)。その後、北大のコーチになって、先輩たちの言うことが今では理解できる≠ニなった時には、もう皆次々と亡くなられていて周りに(教えてくれる人が)いなくなっていたんですね」


■コーチへの復帰■

 昭和50年(1975)に卒業した佐々木氏は一時サラリーマン生活に追われるが、1年半後、柔道部コーチとなり約4年間を務める。

 そして北大を七帝戦連覇に導くと一旦コーチを引退した。

「暇な時には顔は出していたんですが、だんだん足が遠のいて約9年。そんな時に偶然、コンビニで増田(増田俊也氏、昭和61年入学)に会って。『いま最下位が続いていてチームがどん底です。佐々木さんに助けてほしい』と懇願されてコーチに復帰、約20年間務めました。増田が1年の時にはまだときどき顔を出していたんですが、彼が2年の頃から道場に行かなくなっていた。後で訊くと、『あの店でときどき佐々木さんを見かける』という噂を聞いた増田が待ち伏せしてたんです(笑)」

 こうして再び北大柔道部を強豪校の一つへと復活させた佐々木氏。

 現在は若い後進コーチの育成のために正式な役職は退いているが、毎回稽古には顔を出して指導を続けている。

「今は相当、戦前の技術が復活されています」


■寝技軽視の国際ルール■

 そもそも佐々木氏が最初にコーチを引き受けたのも、「技の伝承」の問題があったのだという。

「学生は各学年の人数もまちまち。特に上級生が少ないときにはせっかくの技の伝承がストップしてしまう。私が卒業してから札幌で大会があったので見に行ったのですが、私の二期下には寝技師が何人かいたはずなのに、その技が一つも伝わっていなかったのでビックリして……。訊けば4年生が二人しかいなかったんですね。やはりトータルで見ていく者がいないと、技の伝承は難しいんです」

 一方、柔道界全体でも寝技の技術はどんどん失われていく方向にあった。

 佐々木氏の現役時代はいわゆる講道館ルールにおいても多少の寝技の攻防は見てもらえたが、国際ルールが導入されてそれが主流へと変わる中で、「すぐに『まて』がかかってしまうので、立技から移行したら、あっという間に極めてしまえるものでないと通用しなくなってしまったんです。

 講道館ルールから国際ルールに変わる時期に多くの寝技が駆逐されて失われています」と語る佐々木氏。

「駆逐されてしまった技の一つが『横三角』なんですが、私が現役の頃、横三角は大学で初めて習うもので高校生までは知らない技だったんです。当時大学では全国的に使われていたのですが、これが国際ルールの導入で七帝以外ではほとんど消えてしまった。ところが、これがヨーロッパで盛んになったため、向こうの審判は横三角を見てくれる。これが日本に逆輸入されて今、中・高校生で横三角が盛んなのだそうです(中学では絞めではなく抑え込みに展開する)。今では七帝以外の大学ではほとんど使われませんが、私は柔道少年団の指導者から『横三角を指導してくれ』と言われて、初めてその状況を知りました」


■高度に発達したカメ取り技術■

 「本来はカメ(相手が俯せになってこちらの攻撃を防ぐ防御の方法)取りの技法」と言われる横三角は、七帝では比較的ポピュラーな攻撃技だ。

 カメ取りは、俯せで待っていれば数秒で「まて」がかかってくれる国際ルールの中ではほとんど意味をなさないが、高専柔道では高度に発達した技法の一つであった。

 このように寝技の技術は海外からの逆輸入や、他の格闘技に取り入れられたものに影響を受けて、現在ではかなり見直されてきている。

 そして冒頭に記したように、今では高専柔道で独自に発達した多くの独特な技法も復活を遂げているという。


■寝技仙人の技術体系■

 佐々木氏は高専柔道の遺産である寝技の攻防の要点を、@上からの攻め、A下からの返し、Bカメ取りの三つに分類し、Aに関してはさらに三つの間合に分けて技を体系立てている。
寝技体系の表

「昔は高専の技をどうやって復活させるか?ばかりを考えていました」

 と語る佐々木氏だが、中には難しくてできない技もあったという。

「浅野返し」はその代表例だ。

 浅野返しは高専柔道の強豪校、六高OBの浅野善造氏が得意とした、下から相手を返す技法である。

 北大では東京五輪の前に浅野氏自身が当時の柔道雑誌で分解写真入りで解説したものを、武内光一氏(昭和36年入学)が研究し取り入れたのが最初であるという。

「でも当時はそれが浅野返しとは知らず、名前は知っていても浅野返しは幻の技の一つでした。北大では武内先生が復活させ、のちに修猷館高校で奥田義郎先生(天理大出身。大学時代に高専柔道の名門同志社高商の元師範胡井剛一のもとに通って寝技を習得し、佐藤宣践や岡野功を寝技で屠った伝説の寝技師)に学んだ渡辺康憲(昭和47年入学)がこれを教わっていて、飛躍的に発展させました。ただ、現在使われている技は、言わば『浅野返し改』というもので、本当のオリジナルは誰もできる人がいないのです。現在の浅野返しには一と二があります」

 北大の、この浅野返しの一・二では、二の方が縦返しの逆転技など、いろいろに応用が利くのだという。


■「浅野返し」の完全復活■

「オリジナルは相手の腹にあてた片手で支え、攻めに合わせてひょいっと返してしまう。ちょっと浮かせるのがコツなんですが、どうしてそんなことができるのか分からない。そこを、反動をメインに利用することで、誰でもできる技にしたのが改です。これは他の大学に知られるから本当はあまり言いたくないんだけど(笑)。渡辺がやるのは一だけでしたが、無駄な力を使わない素晴らしいものでした。これで北大予科からの伝統の『かみつき』をどんどん破ってしまった。ただ、浅野返しにも欠点はあって、要はこちらから攻めなければいいんです」
「浅野返し」の流れ

 寝技という大地の前人未踏な領域に多くの学生が新たな新技を編み出して足跡を残したが、新たな技も知られてしまえばその攻略法が研究され、数年後にはそのままでは通用しなくなってしまう。

「どんな技でも弱点のない技はありません。そこを突かれれば通用しなくなる。しかしそこを、さらに研究して乗り越えていく。この繰り返しによって、技はさらに深められていきます」

 また、佐々木氏には高専の技で「これはもう自分しか伝承している人間はいないだろう」と思っていた技があったという。

「高専柔道の名著『闘魂』を書かれた湯本修治先生(旧制松本高出身)に習った技ですが、名前は知りません。戦後の一時期、湯本先生は各地の大学を回って高専の技を教えていたんです」

 すでに湯本氏の母校、東大でもその技は失われていたという。ところが、ある時、北大の一年生がその技をやっていて驚かされた。

「千葉出身の子でしたが、『どこで習ったんだ?』と訊くと、高校時代に千葉大OBだった顧問の先生に習ったという。東大は一時七帝戦から脱退していた時期があり、技術も断絶しているはずですが、ちょうど、その人の年代というのが東大がまだ発信力をもっていた時代で、近郊の大学がいろいろ研究していた時期なのですね」

 高専柔道から七帝柔道へつながる歴史の中で、様々な個性的な技が生まれ、その一つひとつにドラマがある。

 一つの技でも大学によって様々な呼び名があるのも、常に新陳代謝を繰り返す寝技文化の面白いところだろう。

「東大や東北大などがSRTと呼ぶ技は、ウチでは遠藤返しとも呼びます(もともとは京大の遠藤選手が開発した技)。これも今ではポピュラーな技の一つですが、ウチでは七帝用のやり方と講道館ルールでも通用するやり方の二種類があります。別の雑誌で東北大とウチの違いとして紹介されていましたがあれは間違いです(笑)。ウチは両方やります」
「遠藤返し(SRT)」の流れ


■七帝柔道とブラジリアン柔術■

 1995年頃、のちの総合格闘技の先駆けとなるフリールールの格闘技が行われるようになり、その中でブラジルのグレイシー柔術が衝撃をもって寝技の有効性を知らしめることとなる。

 こうしたブラジリアン柔術(B柔術)の影響は七帝戦にはなかったのだろうか。

「もちろん、あります。多くの技がでてきました。それは考える人の人口の差もあるでしょう。彼らは10年単位で考えられますが、七大学合わせて300人ほどの競技人口があったとしても彼らは3年半で卒業してしまう。ただ、私が言いたいのは、皆、B柔術との共通項に頼ろうとするんですが、違う点が意識されていないということです。団体戦が基本にある高専や七帝には『分けの思想』がある。たとえ自らが弱くても相手に絶対にヤられない。どんなにカッコ悪くても生き残る、『分ける』ということを高い位置に置く七帝の考え方を身に付けてほしいのです」

 だから七帝柔道では「カメ」の技術が高度に発達し、それを破る技術とともに、中心的な役割を担うこととなる。

「よく首を守ることに拘る人がいますが、大切なのは脇の固さです。脇を取られると簡単に返されてしまう。確かに襟を取らせないことは基本ですが、ここを突破されると案外簡単に取られてしまいます。それより、脇を固めて相手の手の進入を阻止することです」

 とはいえ、七帝で鍛えられた鉄壁のカメで襟を守られると、これを攻略することは容易ではない。

「寝技で『まて』で数秒間で助けてくれるような国際ルールの甘っちょろいものではありませんから(笑)。八分間、完全にカメで守る技術、七帝の鉄壁のカメを取るのは国際ルールやってる連中には無理です。私の知る限り、七帝の鉄壁のカメに対して首がとれるのは『舟漕ぎ』だけです。でも国際ルールの連中がやってる『舟漕ぎ』では甘い。それは相手のカメも甘いから。七帝の堅いカメを取るには八分間かけてでも絞め落とす強烈な『舟漕ぎ』を身に着けなければならない」


■寝技の「打ち込み」■

 今回この舟漕ぎも御紹介いただいたが、これを練習させてみて、上手い人間には絞め技を仕込むのだという。

「関節技には結構興味を持つ人が多いのですが、絞め技はなかなかやろうとしない。襟を取るのが難しいからですが、そこで私は襟を持つことがどれだけ有利か体感するために背負投に対して掴んだ襟を放さず相手を潰していく『背負潰し』という練習を取り入れました。これによって絞め技をやる人も多くなったので今ではこれを『絞め入門』と呼んでいます(笑)」

 佐々木氏の工夫はまだまだあるが、誌面の都合から最後に効果をあげた改革は何かをお聞きした。

「『反復練習』を取り入れたことです。そもそも立ち技の打ち込みに相当する寝技の練習はないのか?≠ニいう疑問がありましたが、高専柔道の資料を見るとやたら『反復練習』の大切さが語られている。でも、やり方が書いていないので自分で考えて、試合に使わないような技でも全ての技を1,2年生には強制的に反復させる練習を実施しました」

 3年生にはその中から自分に合った技を選択させた。

 このため逆に、最も基本となるスタンダードな技が整理され、それを代々伝承し、そこから自分自身の技≠作り出す方法論が確立された。

 それはまるで日本武道が醸成した、「形稽古」の本旨を、地でいく方法論とも思える。

「どうしても技というのは、その時の指導者のマネをしてしまう。しかし、体格も性癖も違う人間が真に技を使いこなすには、自分の中で技を作る必要がある」

 創意工夫によって常に進化する寝技≠ニいう武道文化の真骨頂。そこに、武道の原点ともいえる上達論が垣間見えた。(「月刊秘伝」2012年8月号)



---------------------------------------
◆佐々木洋一(ささき・よういち)
旭川東高校柔道部から3浪して北大柔道部へ。北海道大学水産学部卒。小菅正夫の一期下にあたる。岩井眞主将の時代からコーチを務め、今でも道場に通い、学生を指導し続けている昭和50年代以降の北大柔道部の生き字引的存在。現役時代は東大の超弩級・三本松進氏と分けるなど、小柄な体で活躍した。その独特の雰囲気から学生たちに「寝技仙人」と呼ばれる。